アリトホシクズ

 テヅカオタクの楽描きと語りとメモ
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久々にマンガ
T&B  2013/08/03(Sat)02:01

特報の衝撃に思わず夜中に楽描いたT&Bマンガ。


先週pixivに上げといたマンガですが、こっちにも倉庫的に置いておきます。

とりあえず、TVシリーズのあの最高のラストから続きをもしやってくれるとしたら、1部昇格or2部残留問題とか、元KOHなバニーの扱いをどうする問題とか、新バディ問題とか、“サラリーマン”ヒーローなら避けられない問題だろうとは考えていたので、あの特報の流れは予想どまんなか過ぎて逆にびっくりでした。
さすが展開は斜め上でも大筋は王道なタイバニ……!
ということは、やっぱり王道で、すったもんだの末に最後はバディが落ち着くオチになるんだろうなー、同じ西田さん脚本のトトリ最終話でもバディ解散?とあおっておいて割と軽く笑って済んじゃったみたいに、これも案外、作中では軽い扱いかもしれないよなー、なにせタイバニだしなーという希望。願望。熱望。切望。

前に別所でも書きましたが、タイバニの特にシリーズ初期に色濃かった“サラリーマン”ヒーロー設定のあれこれが大好きなので、その辺のあれこれが映画でたくさん見られたら嬉しいのです。特報の「容赦ねえなあ、現実ってやつは……」呟きのおじさんの寂しい背中に溢れるどうしようもないタイバニ感…!
そんな努力!友情!現実ううう!な世界観の上に、それでもシリーズラストに胸の熱くなる「1minute」の文字を見せてくれた西田さん脚本を信じて来年を待つー。

それにしても、あの生意気優秀ルーキー様だったバニーさんが遂に先輩になるのかと思うと、それだけで感慨深いですね。にまにませざるを得ないですね。
いっそ、ライアン君にたくさん振り回されて、TVシリーズ初期のおじさんの苦労を追体験してみるのもいいじゃないですかと思っている。そこで、己のツン期のあれこれを思い出して黒歴史うわああとなるか、おじさんに苦労してんねーとからかわれて自分はあんなひどくありませんでした!とプンプンするか、どっちでもおいしいです。
何事も真面目に直球100%で取り組んじゃうバニーさんが、どんな顔して“先輩”業に取り組むのか楽しみ。


そういえば、タイバニ関係はpixivには割と数上げてたんですが、こちらのブログのタイバニカテゴリーはあんまり動いていなかったなーということに気づいたので、最終回直後に描いたマンガもついでに上げておきます。



おっさんになり切れないしならないおじさんと、そろそろ若者でもいられない若者がダラダラしゃべっとるお話。
***華***
テヅカごと  2013/06/12(Wed)22:57

らくがきがき。

「ラ・チューリップ」ってあだ名カワイイよね。

 +

『サボテン君』でロックが降板せず、あのまま主役を続けていたら、どんな感じになっていたのかなーと考えるのは、長年の楽しき妄想のタネだったんですが。
J・フィリップ版の『花咲ける騎士道』を見て以来、ちょっとこれのイメージが頭から離れず固定されてしまってます。我ながらひどい。

いや、まあ、さすがに少年誌であんな女たらしキャラにはさせないでしょうけれど、本来はハードなはずの舞台設定で、いっそ潔いまでにご都合主義的無敵の強さを持った主人公が、恋あり冒険あり笑いありの何でもありで暴れ回って、ちょっとシュールな痛快娯楽活劇をその華ある二枚目マスクだからこそ成立させちゃってるあたり、『サボテン君』のあの荒唐無稽さと初期ロックの甘さかわいさの化学反応なら、案外もしや……と思えたりですね。

ぬぼーっとした雰囲気で巻き込まれ型トラブルメーカーっぷりを発揮していくサボテン君の無敵キャラも好きなんですが、お気楽のほほんギャグに見せかけといて実は意外とハードでもある『サボテン君』世界だからこそ、いつもは薄幸美少年な初期ロックが、彼には珍しいチート的強さを搭載させてもらいつつ、明朗闊達なる二枚目として暴れまわるのを見てみたかったなー。

もともとの雑誌版『サボテン君』は、サボテンの身の上と後半に振りかかる災難がかなり過酷だったり、ヘック・ベンがしぶとく不気味につきまとい続ける仇敵になっていたり、単行本版よりもシビアさの増したお話になっているので、余計にそう思える。


また、『サボテン君』が一度中断された間に連載されたのが『快傑シラノ』(※)で、これのレッド公演じるシラノの活劇が、まさしく『花咲ける騎士道』から女たらし成分を取り除いて、明るい陽性部分の純度を高めたような楽しさなんですよね。

『サボテン君』を一度はロック主役で始めたときに先生の意図にあったかもしれないもの、しかし主役交代の微妙な路線変更によって心残りになってしまったのかもしれないものを、先生がわざわざ『サボテン君』連載を中断してまで描こうとした『快傑シラノ』の中に読み取っても、深読み過ぎにはならないんじゃないかしらんと思うのですよ。
いや、実際には『サボテン君』連載開始は『花咲ける騎士道』公開より前なので、直接関係ないのはわかってるんですけど。うん。
映画見てても、ついつい結びつけて考えてしまうテヅカ脳。

 +

『花咲ける騎士道』J・フィリップは、どんな無茶やアホなことをやっていようと、悔しいけどしょーがない、かわいいからしょーがないと許せちゃう「(ただしイケメンに限る)」を地で行く男なんですが、この二枚目特有の陽性を持ったスターシステムキャラって、初期だとモンスターが当たるんじゃないかと思うのです。
『拳銃天使』なんて、中盤のチートっぷりとラストのまさかの強引大団円は、まさにモンスターの何でも許せる二枚目の陽性オーラだからこそ成立するだろう作品ですし。


ロックの場合、同じ二枚目でも、その陽性の面 だ け を、しかも楽しくめいいっぱい出した作品って意外とないんだよなあ。あったとしても『ベニスの商人』とか『B・J/ブラッククイーン』とか、おとなしめの優男が多いですし。
(公式二次作品のロックも、2001年『メトロポリス』以前はこの系統が多かった)

人によって意見の分かれる『スリル博士』ケン太役を、自分がロックだと考えるのは、1952年『ロック冒険記』以降、線の細いインテリ少年系の役がしばらく続いていたロックが、1959年『スリル博士』前後の作品で、ケンちゃんのような役を試行錯誤で模索したのを一旦経たからこそ、1960年『キャプテンKen』マモル役で、それまでのロックともケンちゃんとも違う“普通の少年”役にたどり着けたのだと考えると非常に萌える(※)
……からなんですが。

もし『サボテン君』主役をそのまま続けてやっていたとしたら、もしそこで彼の二枚目としての陽性の部分が『拳銃天使』モンスターのように開花していたら……
『キャプテンKen』へ至る道もまたちょっと変わったものになってたかもしれないなーといろいろ妄想がふくらむのです。同じ西部劇の『拳銃天使』『サボテン君』『キャプテンKen』3作品をつないで見えるうっすらとした三角形。

 +

7日に、ロック絵チャにおじゃまさせていただきましたー。
絵チャをするのは実に数年ぶりだった……ドキドキするやら楽しいやら。
やっぱり人様とテヅカ萌え話をわいわいするのは楽しいなー。幸せ時間。
ものすごく懐かしくて嬉しい方とも御一緒できたんですが、今回は二塁名のほうで入室していたので、からくり名のほうで改めてごあいさつするべきだったか……何となく名乗るタイミングを逸してしまった己の交流スキルの低さがちょっと心残り。

ここしばらく引きこもりが続いてたので、時間が合ったらまた絵チャ参加したいなー。
絵の練習ももうちょっとしつつ。私生活に負けずにオタ充したい。
5/25「マンガ史講座〜手塚治虫、スターシステムの魅力〜」
テヅカごと  2013/06/02(Sun)21:22

葛飾区区民大学「マンガ史講座〜手塚治虫、スターシステムの魅力〜」
http://www.city.katsushika.lg.jp/event/5887/018015.html

後半戦は前半以上の濃さだったー。
これホントは6時間ぐらいかけて語ってもらうべき内容だったんじゃないの……。

とりあえず、少しずつ消化しつつの覚書と感想ちょこっと。

 ※前半についてはこちら


 +
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5/18「マンガ史講座〜手塚治虫、スターシステムの魅力〜」
テヅカごと  2013/05/20(Mon)01:33

葛飾区区民大学「マンガ史講座〜手塚治虫、スターシステムの魅力〜」
http://www.city.katsushika.lg.jp/event/5887/018015.html

行って来ました。講師は『テヅカ・イズ・デッド』の伊藤剛さん。
『テヅカ・イズ・デッド』を初めて読んだときから、この本のキャラ/キャラクター概念で手塚スターシステムを読み解いたらどうなるんだろうなー……というか!そこをこそ!もっと突っ込んでほしい!とずっと思っていたので、そのものずばりのタイトルの市民講座開催に、喜び勇んで申し込みました。仕事の休みがとれてよかったー。

18日はまず前半戦でしたが、期待していた以上に面白く、手塚オタクとしての脳細胞もぐるぐる活性化するような内容でした。
というわけで、自分の記憶を留めるための覚書きと軽く感想など。

 +

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くだらなさの尊さあるいは手塚マンガ中国語版雑記
テヅカごと  2013/05/04(Sat)01:40

『ブラック・ジャック創作秘話』3巻、相変わらず暑苦しくって面白いなあ。
知らなかったエピソードはもちろんなんですが、たとえ知っていたエピソードでも、この無精ヒゲ生やしてスネ毛生えてて汗まみれなひどい顔の手塚先生の絵で見ると、余計に心がときめいちゃうからふしぎです。
ホント、何度も書いてるけど、手塚ジャンルはご本尊こそが最強のもえキャラだよ、誰も勝てないよ……。


ところで、今回の巻でちょっと笑いつつびっくりしたことが。

後半のエピソードに出てくる中国の無許可出版の横長単行本のアトムなんです、が。
えっ、うわーこれ私も持ってるやつだわー!と。

以前、一時期なんですが中国語を勉強していたことがあって、そのことをお話ししたら、ある手塚ファンの方が昔、中国出張の際に入手したと言ってくださったんですよね。

同じ本を手塚先生も手にして、やっぱり同じくあの絵にうわあとなったんだと思うと、ほんの少しですが、昔の先生とつながれた気がしてちょっと嬉しい。

 +

というわけで、久々に中国語辞書を本棚から引っぱり出して、手持ちの中国語版の手塚マンガをちょっと幾つか読み返していました。
(ちょうど、ネット上のマンガ業界周辺の方々の間で、マンガの横書き縦書き論争から始まり、日本マンガの海外進出やら翻訳やらの議論が沸騰しているのを目にして、タイムリーな気分でもあった)

ちなみに、自分がかつて勉強していたのは台湾中国語(繁体字)なので、知り合いが旅行するときにお願いしたり、自分でも買ったりで、何冊か集めてきた中国語版手塚マンガは、全て台湾で発行されたもの。
年代的にもおそらくちゃんと許可されたもののはずなので、さすがに件の横長アトムのようにネタにできるほどの面白ひどさはないんですが、それでも、細かいところを見ると、自分の拙い言語力でもマンガ翻訳って難しいのねと思わされることがしばしばです。


例えば、この単行本に収録されている『鉄腕アトム/ロボイドの巻』。
これだと、シラノ警部の名前の翻訳は「白野」となってます。
えーと、白野さんって、そりゃ日本式読み方だったらシラノさんだけど、中国語読みだと「シラノ」とは縁もゆかりもない音になってるよね、それだとこの洒落もの警部がシラノ・ド・ベルジュラックのパロディだなんて全然分かんないよね、鼻のパーツの強調とか超意味不明になりますよねええええ?
……と、ものすごく突っ込みたくなる直球すぎる直訳。

かと思うと、同じ本に収録されている『ロビオとロビエットの巻』では、ロビオは「羅密歐」でロビエットは「茱麗葉」
……って、それ本家本元『ロミオとジュリエット』の中国語訳そのまんまじゃん!と。
うーん、中国語だとロボットは「機器人」で、「ロビ」の音を生かした訳にしても意味が伝わらないから、これは元ネタの意味のほうを取ったということなんでしょうか。

矢似鳴太、井塩春三博士それぞれは、漢字そのままで変わらず。
だけど、これも「ヤニナッタ」「イジヲハルゾウ」という元の日本語読みでの音の意味は中国語読みだと伝わらないので、田鷲警部が「やになったー」とぼやく台詞がダジャレだというのはおそらく伝わってません。
(中国語だと、ただ、あー面子が潰れたー恥ずかしいーという感じの台詞になっている)

そしてまた困ったことに、手塚マンガにはこの手の名前が実に多いんですよね。
『新世界ルルー』でバーナード・ショオからもじって続くコンチック・ショオ、チッキー・ショオとか、『0マン』のブッコ・ワース光線とか、『どろんこ先生』のうるさい立候補者が次津仁売才、八鎌椎とか。
字面としては普通にさらっと読めるのに、ちょっと立ち止まって音にしてみると、本当にくだらないギャグ(褒めてます)になっているネーミングが多いこと。


しかし、最晩年にもなお『ミッドナイト』の主人公の本名をダジャレの水戸真也にしていたように、幾ら画風を変えようと、話や背景がシリアスになろうと、手塚先生にとって、この手の“くだらなさ”は“マンガ”が“マンガ”であるために決して放棄しないし、できないものの一つだったんじゃないのかとすら思えます。いくら読者にじゃまと言われようと、最後まで決して画面から消さなかったヒョウタンツギと同じく。


だから、例えば『ルードウィヒ・B』でモーツァルトが挨拶するブタ顔の伯爵の名前「デーブヒマン」を音をとって「載伯費曼伯爵」と訳されても、何となく偉そうな名前になったなあとは思うものの、あんまりピンと来ない。

この本に収録されている『漫画大学』では、博士が使うとぼけた一人称「ワラバイ」が、普通に辞書に載っている一人称「老夫」(同じ本に収録されている『ぼくのマンガ記」』でもヒョウタンツギの一人称「ワシ」は同じく「老夫」)になっているので、「ワラバイなんて言葉はふざけてます」「ワラバイはそんな言葉は使わんぞっ」のやりとりも、何を生徒が指摘して、何で博士が真っ赤になって否定してるのか、いまいち分かりにくそうです。

いっそ、この『火の鳥未来編』のように、ムーピーを「Mopie」と英字表記にしてしまいたくなるのも、ちょっと分かる気がする。

 +

ところで、そんな中国語版手塚マンガの中で、今年に入ってから知り合いの台湾土産でもらったこちらの『火の鳥黎明編』には、ちょっと感動しちゃいました。

何が感動かというと。
翻訳者の方が、ものすっごく細かいところまで解説を欄外につけているんですよ!
欄外の解説として、ちょっとした言葉の説明や擬音の説明は、たしかに今までのほかの本にもあったんですが、この本の情報量はちょっとすごい。

例えば、ナギが一瞬なる百目小僧は、日本の妖怪で少年体型で云々……とすかさず注釈されますし、モブに紛れたZATOICHIには、何度もドラマや映画になっている『座頭市』、台湾では『盲劍客』のタイトルで知られるなどと細かく説明されています。

同じいびきの擬音「グーッ」も、猿田彦のそれはでっかいいびき!と解説しているのに、ナギのそれはすっかりぐうぐう寝てるわ……とかわいい解説。
何なの、この微妙なニュアンスも把握した愛ある差のつけ方。涙が出てくる。

さらにこの本のすばらしいところは、手塚マンガの本当にくだらないギャグすらも真剣に大まじめに解説しているところなのです。

例えば、ヒミコが「がうろ扼かん さたしまでといよ血 オオーッ」とそれらしい呪文を唱えるシーン。
中国語でも、捕らえ給え抑え給え、鮮血を神明に捧げまする〜的なそれらしい文句になっているんですが、欄外の注釈では、この呪文はひっくり返して読むと「ちょうと出ました三角野郎……」になっているギャグなんだよーということがしっかり説明され、しかも、これは日本の八木地方に伝わる盆踊りの曲であり、歌詞の多くは国定忠治の逸話に由来する……と、いやいや日本人だって若い子はそこまで知らないからねレベルまで解説。

また、火の鳥狩りに来たヒミコに侍女が、今日は月曜日ですから……と言うシーン。
これも、曜日を月・火……ではなく、星期一・星期二……と数字で呼ぶ中国語だと、そのまま訳しても意味が分からないので、欄外で、日本語だと星期一は月曜日、星期二は火曜日だから“火”の鳥は火曜日に出てくると言っているんだよーと説明しています。

えーと、もう何か、この手のギャグをここまで大まじめに懇切丁寧な解説をされてしまうと、すみません、うちの国のヲサムってば、くだらなくてマジすみませんって感じで、少々いたたまれなくなってくるんですが、と同時に、本筋と関係のないギャグにここまで熱くなってくれる姿勢には、感動を覚えずにはいられません。


『ブラック・ジャック創作秘話』1巻では、1ページ大ゴマで手塚先生が暑苦しく「僕は真面目にやってるんです!」と叫ぶところがハイライトの一つ。
そんな真面目に汗まみれで命を削って描いていたものには、ただシリアスだったり哲学的だったり芸術的だったりという部分ではなく、そういう“くだらなさ”あふれる部分もまた同等の要素として含まれていることが、私が手塚マンガを愛してやまない理由の一つだし、ご本尊に大いにもえる理由の一つでもあるんですよね。

確かに、この手の細かい部分を外国語に翻訳するというのは難しいかもしれない。
それは日本人のこちらが、例えばルイス・キャロルの文を幾ら英語のダジャレを解説されつつ日本語で読んだとしても、そのおかしさを多分100%は味わえてないのと同じように。

それでも、たとえ100%は無理としても、その“くだらなさ”を大まじめに翻訳してもらうことで伝わってるものは確実にあるはずなんですよね。
愛やヒューマニズムでもなければ、ダークな黒手塚でも、壮大なテーマ性でも、萌えの元祖でもない、この“くだらなさ”もまた、マンガは虚像であり自慰であり奇矯であり……しかし答えはまだないと評したマンガの神様の、多面的な魅力の一つとして。


ほかの言語の手塚マンガでもこういう解説がついているのか、ちょっと見てみたいなー。

 +

しかし、こういう解説って20年後、30年後あたりには、日本語版でもつける必要が出てきそうですね。

ただ音の面白さだけを感じていた「ワラバイ」が、「藁灰」なるものに引っ掛けていたなんてことも、『B・J』でピノコが「ユーツわのよさ」と言っているのは、当時放送されたテレビドラマ『ルーツ』のことだったというのも、私も結構大きくなるまで分からなかったですし。

もちろん、生前の手塚先生が、そういう時代とともにわかりにくくなる部分を神経質に描き変えていた(そして末代までファンを泣かせる)のは百も承知なんですけれど。
O・ヘンリーに出てくる当時の有名ホテル名や作家名、また夏目漱石に出てくる明治の時事ネタや芸能引用ネタに注釈がつけられつつ、いまだに文庫が版を重ねているように、マンガがそうやって読まれるようになってもいいと思うんですよ。

それは、たとえ時代背景などの解説が必要だとしても、そのことが本筋の面白さを損ないはしないという、作品そのものの強度と普遍性の証明にもなっていると思うから。

なので、『プライム・ローズ』でブンレツがつぶやく台詞「なーるほど…ザ・ワールド…」に、1980年代前半から1990年代後半まで民放で放送されたクイズバラエティであるだとか、『火の鳥ヤマト編』冒頭の「王よっ」「なんだ長島」の台詞のやりとりに、1950年代から70年代にかけて活躍した国民的人気野球選手2人の名前に引っかけたギャグであるだとか、そういう丁寧でときにいたたまれなくなるくらい大真面目な解説が欄外にふられながら出版されてる手塚マンガを、あと何十年か先に長生きして見られたら良いな、と。

それが手塚ファンとしての私のささやかなドリームなのです。



(※そういう点で、厳密には手塚マンガではないですが、時代をきっちり設定して、その時代背景の解説をみっちり入れている『ヤング・ブラックジャック』は、ちょっと面白い形だなあと思いつつ楽しく読んでいる)
嫉妬という名の才能あるいは鏡
テヅカごと  2013/04/12(Fri)03:04

件のバラエティ番組を録画で鑑賞。
http://tezukaosamu.net/jp/news/n_1132.html


いやもう、なんつーか、冒頭でいきなり『メトロポリス』の図版に『ロストワールド』のタイトルをかぶせるというところから始まり、最後の最後まで、ツッコミが追いつかない……状態をリアルで体感させられる内容でした。てれびこわい。
どうせなら、てれびこわいついでに、アッチョンブリケを子供時代に練習してたよーという微笑ましい話を披露してくれたアイドル青年に、それをやらせるくらい突っ走ってくれれば、ひな壇バラエティとしていっそ潔かったかもしれないよ。
後段に座ってた芸人さんが、全集で全部読んだみたいなことをさりげなく発言していたので、あの人にも詳しく語ってほしかったなあ。もっと映してほしかったなあ。手塚マンガ読んでるというだけで好感度が一気に上がっちゃう単純テヅカ脳です。すみません。

マンガ研究者さん方面からは、やっぱり早速、冷静なツッコミ記事が出てました。
http://blogs.itmedia.co.jp/natsume/2013/04/post-2daf.html

番組名検索の上位にこの記事を出してくれているぐーぐる先生ありがとう。


しかし、「マンガに映画的手法を導入!」とか「どん底から『B・J』ヒットで奇跡の復活!」辺りは、テレビで手塚先生が取り上げられるときに、今までも割と定番のネタだったと思うんですが、「実はすごく嫉妬深くて子供っぽい人だったんだよ!」エピソードが、ゴールデンタイムの地上波であそこまで大きく取り上げられたのは、ちょっと珍しかったかな、と。

大友先生への「僕にも描けるんだよ」発言など、この手のいわゆる“マンガの神様の大人げない一面”系の話は、昔から手塚ファン、もしくは熱心なマンガファンの間では普通に知られていましたけど、やはり一般的には、手塚先生のパブリックイメージとずれがあるのか、余り大きくは取り上げられてこなかった記憶が。
それが2000年代前半ぐらいかな、たけくまメモなどのマンガ研究系の有名ブログさんを通じて、特に手塚ファンじゃないオタクにも広まっていき、2010年の『ゲゲゲの女房』放映時に、水木マンガと『どろろ』の関係がらみでツイッターで細切れにどんどん一般にも拡散していったものが、2011年からの『ブラックジャック創作秘話』連載関連で、ネット上ではすっかりネタとして定着したようなイメージです。
あくまでも、自分個人がネットの片隅からふわーっと眺めていての印象ですが。

なので、特に手塚治虫特番でもオタク向け番組でもディープな深夜番組でもない、至って普通のバラエティ番組で、この手の話がお茶の間に流れている状況には、ちょっとふしぎな感慨がじわじわ来ました。

とはいえ、手塚先生の“嫉妬”がらみの発言やエピソードは、言った背景とか、その文脈とか、細かいニュアンスまで含めてじゃないと、本当に誤解を招くものだと思うので、安易に断片だけを面白おかしくトリミングして、一人歩きさせないでほしいなあというのが正直なところなんですよね。切り取ったところだけなら、どうとでも取れちゃうし。
うーん、難しい。

 +

手塚先生の“嫉妬”エピソードといえば、大友先生への件と同じくらい有名だと思うのが、石ノ森章太郎先生との間の『ジュン』事件。
この件については、石ノ森先生ご自身が手塚先生の追悼マンガ『風のように』で描かれていますが、これを読むと余計に、「手塚先生が若き後輩の才能に嫉妬して大人気ない行動をしちゃいました」という単純な話として消費していいものかしらと思えるのです。

回想として描かれる、若き日のトキワ荘のおなじみの仲間たちとの語らい。
新しいマンガ表現とは何ぞやという議論の中で
「どーせ 神さまテヅカは越えられない!」
と言う仲間たちに対して
「いや 越えようとしなきゃ、どんな山だって越えられないよ!」
と力強く言う石ノ森先生が、悪戦苦闘の末にようやく到達した実験的手法で、手塚先生の『COM』に『ジュン』を連載し始める。

それでやっと認められたと喜んだのもつかの間、手塚先生に『ジュン』は「マンガじゃない」と批判されていると聞き、連載をやめると編集部に告げる石ノ森先生。
よりによって手塚先生にそう思われていたんじゃ、もうこれ以上は描けない、と。
しかし、そんな石ノ森先生のもとに、手塚先生が夜中に訪ねてくる。
石ノ森先生と向い合って座り、
「申し訳ないことをした……」
「なぜなのか自分でもわからない…」
「自分でもイヤになる」
と謝る手塚先生。
その瞬間、石ノ森先生の目には、そんな手塚先生の姿が自分自身の鏡像として映るのです。
刹那、己の姿をした手塚先生とお互いを見つめ合う石ノ森先生。

このシーンのハッとするような表現が、手塚先生の追悼マンガということを抜きにしても震えるんですよ……!描いた人と、描かれた人との思いが。

石ノ森先生が手塚先生に映し見た“自分自身”の鏡像は、もがき苦しみながら新しい表現手法を模索して切り開いてきた創作者としての同じ姿。
と同時に、そこには、新しいコマ割りを試みては編集に断られ、頭に来てやけくそになっては仲間たちに苦笑とともに呆れられ、表現の意義を熱く語っては空振りしつつと、ややコミカルに誇張してドタバタと描かれていた、『ジュン』連載前までの情熱が空回っている石ノ森青年の姿も含まれているわけでして。

このマンガ中の手塚先生が終始一貫顔を見せない背中だけの姿で描かれ、いかにも神格化された「神さまテヅカ」、もしくは「越えようとしなきゃ」と意識せざるを得ない大きな壁として表現されているように見えるので、ここで、同じ苦しみを持ち、悪戦苦闘し、そしてときには「自分でもイヤになる」くらいにカッコ悪い空回りもする、マンガという同じ地平に立った一人の人間へと、がらっと反転するこの一コマの鮮やかさに、余計に胸を突かれるのです。


手塚先生の死後間もなく描かれたマンガなので、全体的にウェットですし、脚色もあるかもしれませんが、ここに描かれているのは、越えられないだの、いや、越えなきゃだのと思わせる絶対的「神さま」への眼差しではなく、限りない感謝や尊崇と同時に、「時代と共に風のように吹き過ぎていく」と自ら語ったマンガという表現と戦い散っていった先輩への、親しみと共感とわずかに痛みを伴う憐憫を込めた、戦友としての眼差しだろうと思うのです。

 +

結局、手塚先生の“嫉妬”エピソードが面白おかしいネタとして語られているとき、ふと違和感を抱くのは、こういう視点がすっぽり欠けていることが多いからなのかなあ。

手塚先生が後輩に嫉妬していた話が、テレビで「ええーっ」と観客の驚き声SEが被せられるネタとして笑いとともに成立するのは、つまり、“漫画の神様手塚治虫”と“その他のマンガ家たち”という構図が大前提にあってこそなんですよね。
既に大成功して天才で売れっ子で「神さま」と言われたあの手塚先生が、まさか後輩たちに本気で嫉妬してたなんて!あり得んわー!というギャップゆえの笑い。

例えば『ゲゲゲの女房』が放映されていたころ、手塚先生が水木マンガブームに嫉妬して『どろろ』を描いたという話が、ときには面白おかしいネタとしてネットによく流れてましたけれど、逆に水木先生だって貸本時代に手塚先生の『複眼魔人』冒頭そっくりの構図や『鉄腕アトム/ミドロが沼の怪人』そっくりの怪物を描いているわけでして。また同時に、お互いそれはご自分が表現のためにインプットしていった多くの中の1つに過ぎないわけでして。
手塚先生から水木先生へ向けられた矢印だけをことさら取り出して、そこに“既に売れっ子だった手塚先生”対“貸本漫画からのし上がってきた水木先生”という、ある種の下克上的な面白さを強調して物語に仕立てちゃうのは、またちょっと違うんじゃないのかなーという気がもやもやしていたのでした。

互いに模倣し模倣され、羨望し羨望され、打ちのめし打ちのめされ、そして嫉妬し嫉妬されつつ、それぞれの点と点が無数の線で結ばれながら網目状に広がっていった戦後のマンガ家さんたちの世界において、手塚治虫は決して唯一絶対神ではなく、そこから放射状に伸びた線は太く多いけれど、やはり少し大きい一つの点に過ぎない。
いや、もちろんテヅカオタクの私にとっちゃ何者にも代えがたい唯一絶対的存在なんですけど、戦後マンガ史を客観的に見るならそれは100%の正解では決してないんですよね。

……まあ、手塚先生の場合はその“嫉妬”の仕方が極端というか真っ正直というか子供っぽいというか、行動へのあらわれ方が実に面白いので、ネタにしやすくて楽しいのはよく分かるんですけど、それを“漫画の神様手塚治虫”と“その他のマンガ家たち”という分かりやすい構図に落としこんだ物語として消費しちゃうのは、せっかく深くて面白い戦後マンガ史という豊かな海を泳いでいく中で、見逃して取りこぼす部分が多くてもったいないんじゃないのかなーと思ってしまうのです。


今日やっと届いた『ブラックジャック創作秘話』3巻(これから読む!ワクワク)にドラマ化という帯がついていましたが、これもまた、件のバラエティのように妙に分かりやすい物語として極端な再構築をされずに実写化されるといいなあと願います。
泥臭くて面倒くさくて暑苦しいドラマになりますようにー。

25回目の2月9日に寄せて
テヅカごと  2013/02/09(Sat)00:12

終わらない物語

△クリックで拡大(激重注意)(5MB超え)


今年も描いてみました。

今年の公式カレンダーがあまりにかわいくって、テヅカ絵描きたいいいい!な気分が盛り上がっていたのと、あと一昨年の2月9日にも同じく50音順で描いたんですが、やっぱりまだまだ描き足りなくて心残りだったので、再度挑戦。

前回描いてないキャラと作品優先(どうしても描きたくて外せなくて入れたのもいますが)で、今回はなるべく横同士のつながり重視であいうえお順に当てはめました。

例のごとく当てはめ方が無理やりなところもあるので、正式な名称と作品名を以下に列挙しておきます。

印はスターシステムキャラとして描いたもの


【あ】アセチレン・ランプ
【い】いもうと(=あやめ『ロストワールド』ミミ『虹のとりで』光子『鉄腕アトム/白い惑星』
『空気の底/暗い窓の女』の兄妹たちの願望を約20年前に既に叶えてたのがザ・フリーダム・赤本ワールド全開『ロストワールド』のあやめさんだよねとか、両思いからまさかの本当にマジ妹になりますオチだったミミには兄妹ダークネタの『奇子』を読ませておくべきだろうかとか、車になっちゃう光子と兄の光一君はそのまま『ミッドナイト』エリカの道に彷徨い込まないか心配だとか、妹ネタだと作品世界の糸がつながり絡まりすぎるのが手塚マンガ。
【う】乳母ロボット(=ジェット)『旋風Z』
Z=良一くんの生い立ちをリメイクして、なおかつ仲間を作ってあげたのが『オズマ隊長』だなあと思うと胸熱なので、孤独な少年時代の彼に読ませてあげたい。でも、あの環境的に科学書ばっかり読んでるんじゃーガクブルと思いきや、ジェットが買ってきたコロッケを見てすかさずコロッケ五円のすけの杉浦茂になるあたり、ちゃんと歳相応に子供らしいマンガ読書もしてるのねーとちょっとホッとするのです。
【え】江戸っ子四十二歳(=ヒゲオヤジ)
かっこいいヒゲオヤジさんも好きだけど、子供や小動物相手で眉尻下げてるときの顔も大好きなのです。映画『メトロポリス』でティマに初めて会ってあいさつしてるときのほわーんとした作画は、その雰囲気がすばらしくよく出ててお気に入りの1シーン。
【お】オッサン
うすぼんやりした三下役もいいですが、『メトロポリス』で「ミッチイさまは人造人間さまでしたので」というセリフに出ている、脱力感あふれる真面目さも似合う人。同じ執事で同じ髪型なのに『新世界ルルー』プリン伯爵宅執事とはえらい差なんだよなあ。その差にあらわれてるものこそが、この人の愛すべき持ち味。
【か】監督(=伊万里大作)『I.L』
【き】キャプテンケン『キャプテンKen』
【く】クリス『白いパイロット』
【け】ケンペル(=本田芳男)『アドルフに告ぐ』
【こ】小次郎(=佐々木小次郎)
『おお!われら三人』で描ききれなかったことを描いたのが『アリと巨人』等なんだそうですが、『アドルフに告ぐ』もまたその系譜の先につながってるものの1つかと。芳男には『おお!われら三人』小次郎の陰陽反転的なものをすごく感じるのです。宴席で嫌気が差して抜け出すシーンとか特に。
【さ】三羽烏(=猿飛佐助・高千穂日出男)『おお!われら三人』
【し】新聞記者(=山下・マサやん)『アリと巨人』
『おお!われら三人』幻の第二部構想で先生が言ってた「学校の先生になる」のは、やはり3人のうち高千穂が一番ふさわしいかしらん。その部分の構想が『アリと巨人』マサやんに変化したのかなと思うと、三羽烏の爽やかバンカラ友情と、ムギやんマサやんの末路との落差が余計にひどいわー。オサム鬼だわー。
【す】相撲部屋雑用(元)(=日本人)『グリンゴ』
【せ】セメン・ボンド『バギ』
南米つながりの2人。『グリンゴ』鬼外さんって恐らく『バギ』セメン・ボンドさん系譜のキャラじゃないかな。80年代手塚マンガのくたびれたおっさんの世慣れ感がかもしだすエロさ。
【そ】象野キン子『雑巾と宝石』
【た】タマミ『火の鳥/未来編』
愛する男のために美醜のあいだを行ったり来たりな二人の女。自分が“美人”になったらそれをあっさり受け入れてちゃっかり活用するサバサバしたたくましさと、その根底にあるいじましさのバランスが実に絶妙な可愛さだと思う、キン子さん。
【ち】チャーとベター『エンゼルの丘』
【つ】つぐみ『あけぼのさん』
『七色いんこ/三文オペラ』は、いしかわじゅんと吾妻ひでお(のパロキャラ)のキスシーンがド派手でつい目が行くんだけど、その影で実は「上半分父親下半分母親のつもり」の母親バレリーナという、『あけぼのさん』つぐみちゃんと南先生のセルフパロディも密かに楽しんでやってる気がする。
【て】天馬博士『鉄腕アトム』
【と】トビオ『鉄腕アトム』
【な】ナギ『火の鳥/黎明編』
【に】忍術使い(=猿飛佐助)『おれは猿飛だ!』
【ぬ】ヌタヌタ(=会津の三人組)『スリル博士』
作中のヌタヌタの用法は方言として厳密には間違ってるらしいんですが、このお三方の雰囲気と合わせてなんか好きな響きの言葉なのです。この3人を描くために久しぶりに福島まんが集団「青い鳥」発行の『私たちの手塚治虫と会津』を引っ張りだして読んだら、しみじみとマジ泣き。
【ね】ネリ『グロテスクへの招待』
【の】ノッコ『W3』
【は】ハリール『火星から来た男』
『W3』と『火星から来た男』UFOデザインのすばらしさ。
【ひ】ピピちゃん『ピピちゃん』
【ふ】フラリ姫『冒険狂時代』
『ピピちゃん』ヒヤシンスとか、フラリ姫とか、嫌味もなく罪もなく無自覚にぜいたくを享受してるお嬢様キャラの屈託なさが結構好き。
【へ】ヘック・ベン
【ほ】ポンだまコニイ『漫画大学』
コニイのツンデレかわいさは、リッキーと並ぶリス系獣キャラとしてもっと評価されるべき。クララのキツネにあるまじき美熟女っぷりと併せて。
【ま】マリア『やけっぱちのマリア』
【み】ミイちゃん
【む】武蔵『フィルムは生きている』
武蔵が先生自身の投影だとしたら、いつか動かしてやりたいと熱烈に想うアオに相当するのはもしかしてミイちゃんだったのかしらんと考えてしまう。若き日の先生が3次元化したミイちゃんの絵と一緒に撮影してる写真を思うと。
【め】メンデルスゾーン『野ばらよいつ歌う』
【も】モブ『鉄腕アトム/エジプト陰謀団』『来るべき世界』『鉄腕アトム/黄色い馬』
世界征服できたら、まずは給料が上がるよーと喜ぶエジプト陰謀団の面々がアホかわいくてですね、もう。
【や】山嵐って手だぞ(=ケン一)★ ※『メトロポリス』ネタ
『ケン一探偵長』で見られなかった見たかった幻のケンちゃん稽古着姿。
【ゆ】夕焼け雲のピンク『ピンクの天使』
【よ】四次元のお姉さん『ふしぎな少年』
【ら】ラムネ&カルピス
【り】リッキー『0マン』
【る】るん『るんは風の中』
【れ】レレイなのよさ(=ピノコ)『ブラック・ジャック』
ジュネが成長して“女”になったときに、青居が時間を止めて彼女と安住していた場所から出ていかなければいけなくなった『火の鳥生命編』を考えると、あの崖の上の家で決して成長できない彼女と住み続けるB・Jとピノコの関係は、不完全だからこそ完全なんだろうなと思う。
【ろ】ロック・ホーム
【わ】和登さん『三つ目がとおる』
【を】ヲサム


【ん】のオチは『がちゃぼい一代記』の漫画の神様と『サボテン君』ネタで。

初期作品の終わりでよく出てくる洋画っぽい“the End”や“FIN”の文字が、子供のころはやたらとカッコよく見えてしびれたもんですが、『サボテン君』で「おしまい」の文字を掃きだす先生とか、『火星から来た男』の「まだ終わりは早いッ」とか、ああいう楽屋落ちっぽいネタも好きなのですよ。どうしようもなさも含めて。
そういう意味でも『がちゃぼい一代記』ラストの文字は、すごくいいなあと思う。


しかし再度描いてみて感じるのは、本当に1つの文字にあれも描きたいこれも描きたい……と収拾つかなくなるのが、手塚作品40年分のでかさ深さの証しですね。改めて。

『がちゃぼい一代記』ラストの「この話はこれでオシマイではありません。なぜなら…」の文を噛み締めつつ、何十年たっても燃えと萌えとその他もろもろ楽しませてくださる先生に、50音順を何度描いても尽くせないたくさんの感謝と敬意を込めて。
ほげたら
テヅカごと  2013/01/29(Tue)00:22

塗り塗り練習



『どろろ』のどろろは、男の子のふりをした女の子。
しかし、オールスター総出演作品『B・J』にゲスト出演時しているときのどろろは、『ミユキとベン』ベンの子分だったり、『ある教師と生徒』久男君だったりと男の子役で固定。
というわけで、スターシステム俳優としてのどろろという子役は実は男の子であって、『どろろ』出演時のどろろ役は“男の子のふりをした女の子”を男の子が演じているという入れ子状態だったのだとしたら、それはそれで趣深いんじゃないかしらんと思う夜更け。
というか手塚先生ならやりかねない。

 +

右にあった一言日記欄について、ぽちぽちメールやコメントいただきまして……。
ご心配くださった方々、すみません&ありがとうございます。
スクリプトを置いてあったサーバーが年明けからどうも不安定だったので、撤去することにしました。 ※過去ログだけリンク貼っておきます。

軽いネタのはき出しには便利な場所だったので、別の設置方法が見つかったらまた復活させますー。
2013
テヅカごと  2013/01/03(Thu)18:26


ようやく絵を描ける状態になったので、リハビリ楽描き描きたのし。




公式的には白黒アトム50周年だけど、私的には平成アトム10周年でもある。

今年も、テヅカのかわいこやかっこいこや父子らでわーきゃーしたい所存です。


境界線上の子どもたちと『めぐり会い』
テヅカごと  2012/12/22(Sat)02:34

このご時世に相変わらずツイッターをやっていない引きこもりなんですが、やはり情報の速さは一番なので、ときどき世間の風を浴びようと「手塚先生」や「手塚治虫」で検索をかけています。

それで、結構前なんですが、こちらのつぶやきがRTされているのがよく目に入った。

手塚オタクを長年やっていて、薄い本にせよウェブ上の文章にせよ、これと同じような熱い語りは、割と定期的に見かけている気がするなあ。
やはり『めぐり会い』恵さんのこの結末に関して、賛否両論どちらにせよ何かしら引っかかるものを抱くのは、特に女性のB・Jファンが一度は通る道なのかも。

とはいえ、このようにジェンダー観点からの切実な(ときに怒りすら伴う)強い感情をもって語られているのを目にすると、それ自体が逆に『B・J』という作品について
「昭和一桁生まれで戦前教育を受けた男性が描いた約40年前のマンガ作品」
ということが妙に意識され過ぎず、現在進行形で読まれているからこその側面を感じられて、ちょっと胸が熱くなるのも手塚オタクの正直な反応だったりします。

 +

まあ、私も、もし術前術後で不安と喪失感いっぱいの患者に「女ではない」発言をする男が本当に三次元にいようものなら、ヒョウタンツギの母性愛ガス攻撃(@ロック冒険記)をスカーッと食らうがいいわと思いますが、この『めぐり会い』という話そのものについては、普通に一つの美しい恋愛モノとして読めているんですよね。
オタクのひいき目を抜きにしても。

この話が描かれたのは、1974年。
1970年代前半なら、まだまだ“女性=子供を産むもの”という価値観は強かっただろうなと想像するのは容易なので、その当時に描かれたこの話で、子供を産むための臓器である子宮を“女”たる証のように扱う価値観が出てきても、別にふしぎではないはず。

しかし、そんな時代フィルター以上に、自分がこの話をすんなり読めている要因で大きいのは、むしろ作中で描かれる恵さん自身の態度のほうなのです。

 +

よくよく『めぐり会い』、そして恵さん再登場の『海は恋のかおり』を思い返してみると、黒男先生のほうは、彼女との恋の記憶がずっと痛みとともに胸に引っかかっている様子なのに、恵さんのほうは実にさばさばしています。

“子宮をなくす=女でなくなる”という物語内設定を前にして、そのことを恐れてたじろいでいるのはむしろ黒男先生のほうで、当の恵さんは“女”として抱いていた恋心が黒男先生からの告白によって成就した時点で、もう“女”としての自分の生に区切りというか落とし前をつけてしまっているかのよう。

だから、恵さんが「手術が終わったらこの気持ちもかき消えてしまうのね」とすんなりピリオドを打ち、自分でも自分のことを「すでに女ではなかった」と過去形で話すのに対して、黒男先生は「この瞬間は 永 遠 なんだ」とか言って、彼女が“女”である時間を食い止めよう、とどめようとあがく。

何というか、「過去の恋について、男は名前を付けて保存し、女は上書き保存する」とよく言われるように、黒男先生の中では“女”としての恵さんと“男”としての恵さんが別のフォルダに分けられている(だから写真もとっておくし、彼女は彼の「妹」なんて設定をとっさに言ってしまう)けれど、恵さんの中ではかつて“女”だった自分の上に、今は“男”として生きる自分がすっかり上書きされているんじゃないかと。

かといって恵さんが、自分はもう“女”ではないんだからと、ことさら自分は“男”ですと声高に主張して生きているわけでもないのは、『海は恋のかおり』で少年船員に“女だった”と知られていることからして明らか。

“女”として成就した恋は美しい思い出として記憶に優しくとどめつつ、“男”という身分だからこそできる仕事を「やりがいがありますよ」とにこやかに言う彼女は、自分の性が“女”なのか“男”なのかには実はさほど頓着せず、どちらの性の特権も負うものも、肩肘張らずにしなやかに受けとめているように見えるのです。

私自身がこの話を特に引っかかりも感じずに読めるのは、恵さん本人のそういう態度ゆえなんだろうな、と。

 +

この辺は、1977年に石上三登志さんと手塚先生がされた対談中でも、
「(男装の少女に対する石上さんの言及に対して)でも意識的に男装しているのは『リボンの騎士』だけで、あとは女自体は自分が男でも女でもどっちでもいいという、つまり中性的な人間でしょう。」
「(自身のテーマとしてのメタモルフォーゼについて)常に状態が変わり、存在理由も変わって、その都度それは納得するようなものであるという、そういう世界に僕はすごくあこがれますね。」
 〔※『手塚治虫の世界』収録の対談『ヒゲオヤジの生と性?』より引用〕
と興味深い発言をされています。
まあ、先生のおしゃべりは3割ぐらいで受け取っておくほうがいいんでしょうけど、恵さんのさばさばした態度には、この発言と通じるものがあるなあと。


上述したように、作中で定義される“女”という枠組みについて、
「昭和一桁生まれで戦前教育を受けた男性が描いた約40年前のマンガ作品」
という作者本人の生まれた年代、もしくは作品が描かれた年代の影響下にあるものが採用されている(※ただし、物語の一要素であるそれが作者本人の価値観であるかどうかはまた別ですが)としても、恵さんはそれをやすやすと超えてしまう。

手塚マンガの自由さ、面白さ、メタモルフォーゼの肝はつまり、作品内で提示される定義の枠組みが広い、もしくは無いことではなく、逆に枠組みは固いものとして提示されつつも、それを軽やかに超えてしまうところにこそあるんじゃないかと思うんですよね。

それは『リボンの騎士』サファイヤが、“男”のときは雄々しく凛々しく勇ましいのに対して、“女”になるとたおやかでおしとやか、剣を持つ手は震えて敵にとどめも刺せなくなるという一種古典的な造形描写による“男”と“女”という性をあっちこっちしつつも、そこに、男かくあるべし・女かくあるべしという前時代的で窮屈で押しつけがましいものを感じることはなく、むしろ両方の性をめまぐるしく行き来しながら、どちらの性でも生き生きと動き回るサファイヤの姿に美しさと魅力を感じるのと同じく。

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ところで、性別含めて“自分は何者か”という定義があいまいな子というのは、手塚マンガお決まりのパターンですが、サファイヤのようなファンタジー設定はともかくとして、恵さんのように「手術」もしくは何らかの事情による肉体の欠損でその定義に変化が生じるのもまた手塚マンガでよく見られるパターンです。

さらに、あえて描かなかったのか、もとからそういう人物設定だからなのか、性が変わる(もしくはそう言われる)こと自体への悩みが作中で描かれなかった恵さんとは違って、その定義を他者から押しつけられて苦しむはめになるのもまた初期手塚マンガのお約束。


例えば、『地底国の怪人』ミイちゃんは、手術によってただのウサギから人間化されたウサギになりますが、街の人から「ウサギのおばけ」と言われたかと思えば、仲間たちには人間としての振る舞いを否定されて悲しむ。

例えば『妖怪探偵団』サチ子は、猿飛佐助7代目の忍術使いとしての体を実の父に「異常体質」と忌まれて、手術によって忍術を失い「なみの人間」にされて涙を流す。

例えば『月世界紳士』サヨコは、人体改造機によって地球人から月世界人に強制的に戻されてしまい、その顔をケンちゃんに見られたことを恥じ、地球にも月にももう帰れない身だと嘆いて死を選ぶ。

例えば『複眼魔人』アー坊は、手術によって本人も望まない人のうそを見抜く眼を持つはめになり、自分の復讐のためにそれを手術した医者には「神のよう」と呼ばれ、逆に周囲には「悪魔」だとののしられる。


初期手塚マンガにおける大ざっぱでおおらかな「手術」の描写が、マンガ的無邪気さに満ちた万能性を持ちつつ、どこか底にぞっとする怖さを感じさせるのは、“自分は何者か”を他人に強制的に変えさせられることへの本能的恐怖があるせいなのかも。
(その怖さがまた手塚初期マンガの大好きなところなんですが)

『ライオンブックス/双生児殺人事件』で、切り離された双子が自分たちを「半人前」だと思い込み、手術した医者を逆恨みしたのも、その恐怖心ゆえだったんだろうなと。

 +

で、それらの行き着いた究極形として、事故で肉体を失ったトビオが手術ならぬロボット工学で生まれ変わったアトムもまた、ロボットでありながら人間の子どもとして育てられるというあいまいな生を受けた末に、父親の天馬博士に「おまえはトビオじゃない」と言われるのです。

しかし、アトムが「トビオじゃない」と言われて心を痛めるのは、あくまでも「トビオ(=天馬博士の子ども)じゃない」部分であって、「トビオ(=人間)じゃない」とされる部分については実は頓着していないんですよね。

ミイちゃんのように「ぼくは人間だい」とウサギの顔で訴え続けることはないし、サヨコのように地球人のパパとママの娘じゃなくなった自分の体を嘆いて死ぬことはないし、サチ子のように無理やり変えられた体のせいで命の危機に陥ることはない。

前に書いたように、ロボット三原則のアシモフロボットとは違って、ロボット法の手塚ロボットは、その中身は人間と同等(だからこそロボット法で縛られる必要があるし、自分の良心に基づいて自由意志を行使する姿は尊い)なんですが、同等ということはすなわち同一ということでは決してない。アトムがときに涙を流して訴えるのは、あくまでも「ロボット」として、自分たちの生と感情という魂が人間と同等の重みなんだということ。

だから、「おまえはトビオじゃない」と言われた言葉どおり、再会のたびにロボットとしての名前である「アトム」を天馬博士に呼ばれても、それ自体に傷つくことはなく、ロボットのアトムとしての自分を是認しつつ、彼は天馬博士を父と慕い続けられるのです。

 +

そんなアトムの延長線上にいるのが『0マン』リッキー。

事故で大事なシッポを失い、医者の治療で命をとどめるという肉体の欠損を経験しても、リッキーの“自分は何者か”が揺らぐことはありません。
むしろ、人間の子どもとして育てられていることに違和感を持っていたり、スパイとして0マンの国へ行ったために人間と間違われたりといった揺らぎが、シッポを失ってからは完全になくなって、0マンとしての自覚がより確固としたものになっている。


そんなわけで、リッキーという悲劇の回避者を完成させ送り出してからの中期以降手塚作品では、肉体の欠損によって、たとえ“自分は何者か”の定義が変化しても、それが悲劇に至らないケースもちらほらふえてきます。

例えば、『鬼丸大将』鬼丸は、東に自由の国を造ろうとして「鬼と呼ばれてたけり狂った」末に腕を切り落とされますが、それでようやく「ふかい悲しみと怒りのために身を鬼にかえた」自分を、やさしいマーちゃん(※母のこと)の子どもに戻すことができる。

例えば、『グランドメサの決闘』スティーブは、父のかたきを討とうとしてガンマンの命である両手の親指を失いますが、それによって司法官に転身して、息子としての父への思いを正当な方法で叶えることができる。

例えば、『どろろ』百鬼丸は、生まれながらに欠損していた肉体を取り戻すため、人に忌まれ、人間扱いされない旅をし続け、結局最後にきれいで分かりやすい結末は迎えられなくても、その旅のときに自分の一部だった剣とどろろを、みずからさっぱりとした顔で自分から切り離して旅立っていく。

そして、例えば『火の鳥/復活編』レオナは、失った脳の半分以上を手術でつくりものにされた体について、いくら周囲に「人間だ」と認定されても違和感を抱き続け、最後にはとうとう肉体すべてを失いながらも、「ぼくはロボットになりたい」という言葉どおりの幸福な結末を迎えるのです。

 +

誤解されそうなことをあえて言いますと。
『めぐり会い』内での“子宮をなくす=女でなくなる”という設定は、『火の鳥/復活編』でレオナが、生身の体を半分以上失った自分のことを自動車と電車の部品に例えて、だから自分は「人間じゃない」と言ったことと同じ土台を持つ、臓器を人の体(そして心)を構成する“部品”として認識する概念なんじゃないかと。
それが現実の倫理的にどうかはともかくとして、少なくとも『めぐり会い』内において恵さんと黒男先生の間では、臓器という“部品”に対してそういう価値観が共有されていたのではと思うのです。

この概念のまま、人の体の構成要素を“部品”のように組み立てていくことは『B・J』内で黒男先生がよくやっていることでして、例えば足りない部分をつぎはぎして生かしてやったピノコであったり、例えば弟の体に兄の脳を組み入れる『からだが石に…』であったり、例えばほかの兄弟たちの体をもらって一人がたくましく生き延びる『最後に残る者』であったり、例えば黒男先生が「ライバル」と認めた医者が赤ん坊に別の女性の体を移植して助ける『過ぎ去りし一瞬』であったり。

 +

ただ、黒男先生が『火の鳥/復活編』ドクと違うのは、ただ機械的に人の体を“部品”と見なすのではなく、“部品”を組み上げるだけでは到達できない命の不可思議さに打ちのめされては、そこに敬意を抱きつつ、それでもなお懸命に泥臭くメスを振るうところなんですよね。その弱さと強さのバランスが、とてもいいなあと思う。

手術の腕を奇跡だの何だのと言われていますけど、そこには、もはや初期手塚マンガにおける「手術」にあった“自分は何者か”を強制的に変えさせる万能感は存在しません。
なぜなら、黒男先生自身もまた肉体の欠損と「手術」という過程をへても“自分は何者か”をかろうじて見失なわずに済んだ子どもの一人でしたから。

だから、例えば第7話『海賊の腕』イッチンは、腕を失うことで、体操がうまい人気者のイッチンから海賊へと呼び名を変えられても、別の道の幸せを見つける。

例えば、第37話『二人のジャン』の双子たちは、まるで『ライオンブックス/双生児殺人事件』の裏返しのように、悲劇的な結末とはいえ、切り離された自分たち自身の体と心を守りぬく。

連載第50話だった『めぐり会い』の恵さんの結末も、きっとこれらの延長線上にあったものなんだろうなと思うのです。

商売道具の腕を失ったタクやんが、それでもすし職人であることをあきらめず、その彼の願いに生前こたえた友の献身と、夫が別の形で生き続けることを見守る妻の思いという2つの意味が、最後に「手術」で移植した腕に付されることになる『二つの愛』が、『めぐり会い』の前の週、第49話として掲載されたことも偶然ではないんじゃないかと。


『鬼丸大将』鬼丸がカニに転生した母の愛を確認して救われたように、『グランドメサの決闘』スティーブが本当の父は誰かを知って自分がやるべきことを行えたように、『火の鳥/復活編』レオナがロボットのチヒロを愛して愛されたから体を失うことを恐れなかったように、“自分は何者か”を規定する大きな力の一つが、結局は究極の承認である“だれかに愛されること”になるのかなあ。

『やけっぱちのマリア』マリアや『グロテスクへの招待』ネリが、最終的には形あるものとしての自分の体を脱ぎ捨ててしまうのは、だれかを愛したためで、そして彼女らがそんな自分の生の結末を力強く肯定しているのも、それの裏返しなのかも。

 +

で、この流れを考えると、第28話『指』とそれを改作した第227話『刻印』の違いが、改めてじわじわくるのですよ。

改作前の『指』ロックは、六本目の指を黒男先生に「手術」で切ってもらうことで「バケモノあつかい」だった過去の自分も一緒に切り捨てようとし、最後には、また別の何者かになるために再び指を友の命とともに切り落としますが、結局は犯罪者ロックとしての自分から逃れられず、身の破滅を招くことになります。

しかし、改作後の『刻印』では、留学前に指を切り落とす最初の手術がなくなっている、つまりロックは黒男少年と孤独を分かち合った日々の自分を切り捨てないまま留学したことになるので、『指』とは違い、たとえ暗黒街の皇太子になり、その事実が変えられなくても、黒男先生との友情は続いていたことになる。

黒男先生が、ロックの指をみずから切除して暗黒街の皇太子としての彼の変装を手助けしながらも、自分と緑郎の友情をまるで子どものいたずらのように骨に刻みつけていたことは、恵さんの子宮をみずから切除して“女”ではなくさせながらも、「この瞬間は永遠なんだ」と必死で言っていたのと同じような切実な感情だったんだろうなあ。


手塚先生の描きかえグセはファン泣かせですけど、この改作だけは本当に有難うございますと言いたい。
連載終了の2話前というあわただしい時期だったのに、黒男先生の人生に大事な人らの一人として、恵さんと同等の救いをちゃんとロックにも与えてくれて有難う、手塚先生。

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本当の友情を知ったイッチン、互いに互いの生を尊んだジャンたち、二つの愛を腕と一緒に引き受けたタクやん、そしてロックや黒男先生本人が示したように、“自分は何者か”を強制する絶対的力が「手術」や肉体の欠損にない世界の『B・J』で、だからこそ物語内の“女”の定義から外れても、そこを自分で軽やかに超えてしまえた恵さん。

彼女もまた、最後は悲劇だったとしてもウサギの姿で「僕は人間だね」と周りに認めさせた『地底国の怪人』ミイちゃんから始まり、アトム、リッキーを経て続く、境界線上のたくましくも力強い子どもたちの系譜の一人なんだろうなと思うのです。

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ところで、『めぐり会い』については『B・J』初代担当編集者さんの面白い証言が。

「社内で人事異動があってね、担当を変わらざるを得なかった。その時だけはちょっとセンチになったかな。そしたら手塚先生が『何もできないけども、君の好きな作品描くから』といって3つアイデアを見せてくれたんだ。その1つが『めぐり会い』で……」

「豪華本だと『めぐり会い』って第1巻に入ってるでしょ。先生も好きな話だったんだと思うよ。『B・J』は人気投票で1位になった事がないんだよ。ただ『めぐり会い』の時は2位になったんだ。」

 〔※手塚公式FC会誌『手塚ファンmagazine』Vol.158より引用〕


そういう「センチ」な気分で、当初は単行本に「恐怖コミック」と銘打たれちゃってた『B・J』において、変化球ラブストーリーの『二つの愛』の次週に直球ラブストーリーの『めぐり会い』を先生が描いちゃったのかと思うと、ご本尊萌えが基本の手塚オタクとしてはこう……何かたまらんですよ、うん。






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