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ビニール生まれのおんなのこ
テヅカごと  2015/11/02(Mon)23:38

NHK-FMのラジオドラマ『やけっぱちのマリア』が9月に再放送でした。

青春アドベンチャー『やけっぱちのマリア』(全10回)
http://www.nhk.or.jp/audio/html_se/se2015017.html

思えば3年前の本放送のとき。
え、まさか、これを天下の公共放送さまで、しかも青少年向け枠で堂々とラジオドラマ化しちゃうんですか!?とのけぞり、いざ聞いてみればその脚色の巧さにすっかりやられて泣いてしまったんですが、今回録音コンプリートもかねて久々に聞いてみましたら、改めて、やはり公式メディア化として傑作だなあとつくづく。ええ、今回も最終回で見事に涙ぐみました、本気泣きしましたとも。

そもそも、『やけっぱちのマリア』原作は。
中1の思春期まっただ中の少年が、亡くなった母への思慕からエクトプラズムを“妊娠”してしまい、それが乗り移ったラブドールとてんやわんやのラブコメディを繰り広げる……という設定からして、まず相当に狂っていておかしい(褒めています)ですし、また全体的にも70年代前半の手塚マンガに特徴的なはちゃめちゃ(先生ご本人も「やけっぱち」とおっしゃっている)ナンセンスギャグが前面に強く出ている作品でもあります。
……が、一方で、本テーマ「男女の性」にかかわる部分は、“医学博士号を持つマンガ家”としてのプライドを感じさせるような丁寧さで、まるで学習まんがのよう。
男女の行為について「おとうさんはおかあさんの許しを受けて」からと断って書いているあたりなんて、もう、すべての青少年に教育の一環として読ませたいわ。

倒錯的なのか大真面目なのかまったく分からない、そんな奇作とさえ言える原作から、このラジオドラマは、おかしな設定、おかしな筋立て、おかしなドタバタの影にひっそりと、しかし実は色濃く仕込まれていたヤケッパチとマリアの純愛を誠実に掬いあげ、切ないラブストーリーとして昇華してくれていたのでした。


考えてみれば、男でありながらマリアという子供を産んでしまうヤケッパチは、天馬博士から続く「造物主」としての父の系譜に連なる子ですし。
また、形を持たず産まれたその子が人工で造られたかりそめの体を与えられることで、幼いころに欠損した“家族”を擬似的に埋め合わせるというマリアの役回りは、やがて同じチャンピオン誌上で連載されることになる『B・J』ピノコの原型でもある。

造られた存在が、生きて恋を知って感情をはぐくんでいく過程のはかない歓び。
少年が、初恋という通過儀礼を経ることで得ること失うことを知っていく過程の痛み。

片方だけならばむしろ王道ですらある、この2本の成長物語を重ねあわせて語ることで、父子であり、分身であり、初恋の相手同士でもある、幾重にも絡みあったこのヤケッパチとマリアの複雑怪奇な関係は、ふざけているようでいつつ、実は、手塚マンガワールドの初期から後期まで連綿と続く「異形」をめぐる愛憎劇の文脈の中に、しっかりと組み込まれているのです。

そんなことを浮かび上がらせてくれた点で、本当に素敵な脚色でした。良作。


 +


というわけで、脚色や声優さんたちの演技がすばらしかったのは勿論なのですが。

今回、改めて聞いてみて、『やけっぱちのマリア』がなぜラジオドラマとして脚色したのか、いや、むしろラジオドラマだからこそ、これだけの良作になったのかなと思わされて、面白いなーと感じた点が1つ。


マリアの体はダッチワイフ=ラブドール、つまりビニール製の人形という設定ですが、そのことを今回のラジオドラマでは音で表現している、つまりマリアがしゃべったり動いたりするたびに「ポヨッ モキュッ」と何とも可愛らしい効果音をつけています。

手塚マンガで効果音といえば白黒版アニメのアトムの足音ですが、しかし、あの音はアトムという個の表現というよりは、むしろ作品そのもの全体に何となく「未来」という雰囲気と効果を加えていました。
それに対し、今回このマリアにつけられた効果音は、かわいらしくデフォルメされているものの、いかにも「ビニール」を連想させる音であり、明らかにマリアという個にひも付けられている音。

マリアがラブドールに宿り、動き出し、ヤケッパチや父ちゃんと丁々発止のやりとりをし、タテヨコの会を相手に大暴れしていくたびに「ポヨッ モキュッ」と重ねられていく音。
それは漫符のようなかわいらしさでこのコメディを彩っていく伴奏のようでありつつ、実は、この笑ったり怒ったり恋をしたり忙しい少女が「ビニール製」であるという事実を淡々と、しかし確実に聴いている者の中にじわじわ積み重ねていきます。

そして、マリアがヤケッパチに別れを告げるあのラスト。

原作では、人間のヤケッパチと人形のマリアの恋が「ままごと」でしかないこと、その終わりをヤケッパチもマリアもどこか予感しつつあったことを、深層心理からの共鳴作用というエピソードでやや理屈っぽく語っていましたが。

ラジオドラマでは、この「ビニール」の効果音がラストまでに積み重ねられてきたことで、背中がやぶれ、からっぽの中身がさらけ出され、「人形」であることを認めざるを得なくなるマリアとヤケッパチの哀しみと、それを受け入れていく覚悟が、二人の震える声と息だけで、立ち上がってきます。

ビジュアルのないラジオドラマだからこそ物語上の“記号”として機能し受容されてきた効果音によって、いつの間にか張られていた伏線が、回収され、にわかに現前化する。


だからこそ、別れのときにマリアが震えて泣きながら言う
「私は人形なんです、壊れてしまいました、ボロボロのベロベロのズタズタです」
という言葉の意味が切実な重さを伴って、一気に押し寄せてくるのです。


よく考えると、そもそも手塚マンガ原作では、マリアのビニール製の体と、ヤケッパチ(とその他大勢)の人間の肉体とは、図像レベルでの差異は実はそれほどはっきりとは区別がつけられていないんですよね。
自由自在に伸び縮みし、破れ、へにゃりと横たわるマリアの体は、たしかにビニール製であることを描写してはいますが、ヤケッパチやほかの人間たちもまた、自由自在にデフォルメされていく、いわゆる「マンガチック」な動きで描かれている以上、マリアの体のみが持つはずの特殊性とそれゆえの切なさ哀しさを担保するのは、絵単体よりもむしろ、物語の文脈そのもののほうで。


その意味で、絵がないからこそマリアを現す“記号”としてあの効果音を付けることができたラジオドラマは、実は視覚を伴う形でのメディア化よりも、マリアというキャラクターと『やけっぱちのマリア』という物語を再構築する上で非常に有効かつ最良の手段だったのではないかと思いますし、また手塚マンガをラジオドラマという媒体に移してみるに当たっても、『やけっぱちのマリア』という作品こそがこの媒体に格好かつ最良の題材だったのではないかと。

舞台版『PLUTO』で、これまた原作マンガ(手塚版と浦沢版双方)においては描線レベルでの差異がほとんどなかったヒトとロボットとを生身の人間に演じさせるに当たり、マニピュレイターという舞台ならではの演出によって歴然と区別づけることによって、原作の「ヒトとロボットの共生か対立か」という切実な命題を3次元に立ち上がらせていたように。


“記号”性を帯びた身体と、それゆえに成立し得る物語。


表現論としても一ファンとしてもずぶずぶと考えが止まらなくなる、手塚マンガのそんな側面を、その媒体ならではの表現によって抽出し、浮かび上がらせ、再構築するという点で、今回のラジオドラマの効果音もまた一つ、新たな形を魅せてくれたのでした。
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