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お前の意思は何色だ ― 舞台『PLUTO』感想
テヅカごと  2015/02/02(Mon)00:42

http://www.pluto-stage.jp/
舞台版『PLUTO』観劇してきました。

とても良かった。まだ咀嚼しきれていない部分も多いけど、そこがまた幸せ。

連載当時、毎号ビッグコミックを買ってリアルタイムで追っかけていた原作『PLUTO』。
手塚マンガ絵を現代マンガ絵へ置換するとこうなるのか、あの筋を現代文脈に持ってくるとこう膨らむのか…と毎回見せてくれるアレンジひとつひとつが、驚き、かつ楽しみで。
今回の舞台化は、そんな原作アトムから原作PLUTOへの置換作業をさらにもう一度、今度はマンガという原作を舞台へと移す再置換が行われたものですが、一度目の置換―『PLUTO』連載時と同じワクワク感を再び味わうことができた、2次元を3次元へ置き換える手順がとても丁寧に、そして大胆に積み上げられていた舞台でした。


演出家ラルビ氏の前作『TeZukA』は、TV放映にて鑑賞。
こちらは「原作どおりでない」という事前説明のとおり、明確なあらすじのない身体表現を駆使したコンテンポラリーダンスの舞台で、だからこそ、ミクロとマクロを自在に行き来して読者の頭脳を揺さぶってくる視線や、マンガ表現そのものなど、手塚マンガの観念的で形にしにくい部分が純粋に抽出されて、それらコラージュされた膨大なイメージが生のままダイレクトにぶつけられるような感覚に襲われるふしぎな舞台でした。

ただ、そんな現代ダンス表現芸術にあまり馴染みがなく今まで来た身としては、繰り出される表現手法そのものについていくだけでも精一杯で、「そうか、公式二次としてこういう解体+再構築のやり方もありなんだ、なるほどー」と、ただただ、へーほーと感動するところで終わってしまっていたのも、正直なところ。

しかし今回は、その表現手法が、原作全8巻分の物語を語るため、文字通り“手段”として用いられていたので、『TeZukA』に見た高揚感を通じて、『PLUTO』、そしてそこに内包されている『アトム』の物語を存分に、また自由に受け取ることができて、本当によかったなあと。


 +

客席に着いたところで、まず目に飛び込んできたのが、舞台を天井から覆う真っ白な巨大スクリーンと、それを分割するように走っている柱のような縦横の枠線。
それは、まるでマンガ原稿用紙の上のコマ割りのようであり、さらにコマの数が7つ=地上最大のロボットたちの人数と同じであることにハッと気づくと、その予想どおり、分割された“コマ”の1つ1つに原作『PLUTO』アトムら7人のロボットたちの顔がが映しだされたところから開幕し、あとはもう、あれよあれよと2次元と3次元の境目に分け入っていくような感覚でした。

天馬博士とトビオ時代アトムの淡々と壊れていく父子の夕食風景が、スクリーンの区切られた一コマの内側で、まるで頑なに閉ざされた思い出でもあるかのように演じられたかと思えば。
そのコマ割りを無視して踏み潰すがごとく、スクリーンの前で、ゲジヒトのあの日の記憶、ペルシア王国への空爆とアブラーの悲劇が繰り広げられる。

アトムやゲジヒトたち主要人物たちの背景で空間を3次元に区切るボックスは、それぞれがコマ割りされたコマのように独立した風景を並行して物語っていくかと思えば。
アブラーとゲジヒトが会談するペルシア共和国マーケットの場面では、そのコマとコマの間を一人のモブ兵士ロボットが行き来することで緩やかにつないでみせ、まるで手塚マンガの群衆モブシーンのようなざわりとした感覚を見せつける。

白をベースカラーとした舞台セット上、原作『PLUTO』の絵そのものや、まるでマンガの効果線やトーンのような映像が、彼ら彼女らが語る思い出、受信する情報、覗きこむ記憶の視覚的表象として次々と映し出されていくプロジェクションマッピング。
それらによって、原作のあの長編ストーリーがさくさくと手際よく刈り込まれながら進んでいくとともに、初めは無機的であったそれらデジタル映像に、だんだんと有機的なものを感じていくようになるふしぎ。

最初に現れた巨大な7コマと同じ形をした白い台形のボックスたちが、舞台上、ダンサーの手によって滑るように運ばれ、そのたび家具、階段、壁、意識の描出、墓石へと姿を変容させていく見事な様は、そのまま手塚マンガ的メタモルフォーゼの美しい再現のようであり、人間とロボットが共存するあの世界のあいまいな境界線の象徴のようでもあり、うっとりしました。

 +

そんな『アトム』そして『PLUTO』世界観の描出であり、また舞台だからこその表現として特に面白かったのが、マニピュレイターという存在。

ロボットを演じる役者さんには、それぞれ3人の黒子ならぬ白い服に身を包んだダンサーさんたちが影のように付き、マニピュレイター=操作者として、まるで役者を糸繰りで操っているかのような、はたまたその動作をなぞっているかのような動きで、ぴったりと寄り添い続けるのです。

この表現が、何重もの意味を帯びていて、面白かった!

マニピュレイター役ダンサーのシステマチックな動きが、中心にいる役者個人のささいな動作、手足の向かう先、わずかな視線の行方を一回りも二回りも大きく補強して描出するので、たとえばアトムが道端にカタツムリを見つけるような繊細な動作でも、アトムがふと見つめる先へと観客の注意をうまく誘導してくれる、そんな舞台演出としての面白さももちろん機能していたんですが、それだけではなく。

『鉄腕アトム』の柔らかな線、『PLUTO』のリアルタッチ描線、マンガ表現は違えども、原作マンガではどちらも“絵”のレベルでは判別しにくくなっていた、人型ロボットと人間の区別。
それが、このマニピュレイター演出によって、生身の人間が双方を演じている舞台の上では逆にやんわりと区別が強調されていき、だからこそ、「人間とロボットの共生と対立」というフィクションに土台を置く切実な命題が、人間の役者さんたちの身体から浮いてしまうことなく、自然にすっと入ってきたのでした。

そうやって、前半で人間の役者さんを通してこの演出になじませてくれていたおかげで、中盤から登場するブラウ、ペルシアのアリ、アーノルド、そしてプルートゥといった、いかにもロボット的なロボットを“演じる”人形たちも、まるで文楽のように影役のダンサーに操作棒つきで操られていようとも全く違和感なく、舞台上に生きていると感じられたのです。ここの流れが、あの世界の3次元化として本当にうまかったなあ!と。
特にアリは、ぎこちなくもいじましい動きが、かわいらしくて哀しかった。
アリの“生きている”感があってこその、ゲジヒトとの最期の重み。


そうして見ていくうちに、初めはロボットを操っているように見えていたマニピュレイターの動きが、実はロボットの電子頭脳が自らを動かそうとする意思の表出でもあることに気づくのです。

すぐれた性能を持てば持つほど、スカンクの「完全なものは悪いもの」という嘲笑いやラム博士の復讐、デッドクロスの権力欲と同属嫌悪など人間の思惑に翻弄させられ、その欲望がまたさらにすぐれたロボットを産み出していく本家『鉄腕アトム』の皮肉な悲喜劇。

その終着点であるかのように『青騎士の巻』でロボットに自然にめばえた「人間をにくむ心」と、そこに見た進化に魅せられたのか『アトム復活』編で天馬博士が“息子”アトムに望み押しつける「りこうなロボットがバカな人間を支配する世界」という夢想。

そんな本家のエッセンスを、ロボットの電子頭脳にエレガントで革新的な進化を与えるのは“憎しみ”であるという天馬とアブラーの思想に集約させ、第39次中央アジア紛争を軸とする復讐の連鎖に巻き込まれるロボットたちの物語に昇華した『PLUTO』。

しかし、『PLUTO』ラストで、アトムとプルートゥが自ら涙を流して不毛な連鎖から脱したとき、天馬やアブラーの思惑を軽く超えた“心”を既に勝ち得ていたように。
『鉄腕アトム』のロボットたちが、人間キャラ以上の親しみとおかしみと生命感、そしてある種の理想すら体現した描線でいきいきと描かれていたように。

舞台上に見えるあの白い腕もまた、操られるもの=人間に振り回されるものとしてロボットを縛りつける糸ではなく、自らの意思で手を伸ばし歩を進め眼を開くロボットの心の揺らぎそのものに見えてくるのです。


終盤、アトムがプルートゥとの最後の戦いに向かう前、ヘレナに会いに来る場面。
ここで、ヘレナがアトムの嘘に気づいたことを独りつぶやくとき、彼女は自分の後ろにいるマニピュレイターたちをふと見やります。
この最後に訪れるメタ的な仕掛けが、やさしい嘘をついたアトムも、全て分かって受け入れたヘレナも、それはお互いのロボットとしての“心”が自らに行わせたことを印象づけ、この前の場面で天馬博士がヘレナに泣くよう促す「真似でもそのうち本物になる」、そしてブラウがアトムに触れて言う「これが心…」を、この物語の結末を形づくるピースとしてなお一層際立たせてくれるのです。

そして、白い服を着たアトムやウランたちのマニピュレイターたちであれ、引きずるような土気色の衣装をまとったブラウのマニピュレイターたちであれ、それがロボットたちの心であり自意識のあらわれであることに気づくとき。
自分は「神の領域にいる」とうそぶきながら、実は動くこともできずマニピュレイターがついていないDr.ルーズベルトの不気味な滑稽さがにわかに浮かび上がります。

ラスト、真っ白なコマ枠の前面で、中央の椅子にただ座っているだけのDr.ルーズベルトに、アトムの“心”を知ったブラウの腕がマニピュレイターとともに伸びていき、槍を振り上げ首を落とすシーンは、この演出が行き着く先として最高の図でした。


形を組み替え映像を投影され、次々とその意味を変容させていく7つのボックス。
揺らぎながらも確固としてそこにある“意思”を印象づけるマニピュレイター。

それらは、『鉄腕アトム』で明確な言葉はなくともアトムたちの哀しみ喜び愛おしさを通じて描かれ続け、そして『PLUTO』にも受け継がれていた、「ロボットの心とは」という原作の観念的な部分を、一つの具象として確かに目の前に示してくれていました。

アトムの白色も、ブラウの土気色も、同等の魂として。


 +


それにしても、森山未來のアトムはすばらしかったー!
パンフレットでは、ただ少年っぽい声の出し方や振る舞いでは「アトム」を表面的になぞるだけで終わる、内面からアトムに近づかないと…と語っていましたけど、舞台の上ではちゃんと“少年”になっていたんですよね。ちょっと前に『夫婦善哉』柳吉を演った人と同一人物とは思えなかった。役者おそろしい。
自分が持つ“心”の可能性に怯えつつもそれを真摯に抱きしめる子供のナイーブさと、10万馬力の体とのアンバランスさ、その危うさを自ら知っている聡さと、ときたま人をからかったりお兄ちゃんぶったりする歳相応の少年っぽさが、まさに『PLUTO』アトムであり、『鉄腕アトム』で私が最も愛するアトムの一面も透けて見え。
あれはまさしくアトムでした。舞台の上にアトムがいました。涙が出る。

マニピュレイター演出も、一番しっくり来ていたのは森山アトムだったかも。
特に、劇中2回あるカタツムリを手に取る場面の静かな情感、恐ろしい身体能力でロボットの心の荒ぶりを表現するダンスシーンはすごかったの一言です。

ヘレナとウラン、理知的な女性、甘えん坊な妹という2役を巧みに演じ分けていた永作博美もステキだった!ピュアでかわいくて美しい。
以前から、演技が好きな女優さんでしたが、天馬博士に泣いてみなさいと言われてみて、無機質な「あー」「うー」という“真似事”の泣き声が、やがて“本物”の慟哭に変わっていく数十秒間の表現は、抑制された感情のほとばしりが、原作のあのシーンのこれ以上ない再解釈として、もう、ただ震えるしかなかったです。

今回、事前に最も配役で期待膨ませていた柄本天馬と松重アブラーも、予想どおりの満足度でしたよ!
柄本天馬は、ただ佇んでいるだけで、どうしようもない絶望と哀しみを通り越した諦観をまとっているようでありつつ、ときどき見せる全てを俯瞰し突き放すような語り口が、ああまさしく天馬だわーとニマニマさせられてしまう。
そして天馬博士とブラウ(の声)が、同じ役者の二役というところがまた。
アトムに“心”を与えながら一度はそれを否定し、またそれを蘇らせた、誰よりも激しい愛憎を持つ男と、そのアトムから“心”を受け取るブラウを同じ役者が演じるだなんて、何て暗示的な。すてき。

ちなみに、Dr.ルーズベルトの声はお茶の水博士と同役だったのですね…。これはパンフレットを見るまで分からなくてびっくり。
原作を読んでいたときは、子供っぽく無機質で淡々とした声を想像していたので、ハイテンションでウザさマックスのベアちゃんにはちょっと笑えましたが、天馬/お茶の水とブラウ/Dr.ルーズベルトの対比が同役というのには、いろいろ意図的なものを感じてしまうなー。

松重アブラー=ゴジは、原作よりも憎しみをストレートに吐き出す熱量の高い男になっていましたが、それがまた、天馬にアイデンティティの全てを否定され、ボラーという異形に姿を変え、最後は“息子”にも「父は死んだ、あなたはゴジだ」と言われ終わっていく原作『PLUTO』の容赦ない末路とは違って、アブラーという父親の姿を保ったまま、サハドの姿に戻った息子に抱きしめられて溶岩に消えていくこの舞台の救いあるラストには相応しい人物に微修正されていたなあと。
冒頭、空爆シーンで外れていたサハドの顔面パーツを、松重アブラーがおずおずと“息子”に再びはめてやるラストは、原作で無かった形の救いをプルートゥ=サハドにも与えてくれていて、泣けた。

このラストのアレンジはまた『鉄腕アトム/エジプト陰謀団の巻』を彷彿とさせる形でもあり、『PLUTO』オリジナルのサハドの影に、『鉄腕アトム』で描かれたロボットの子供たちの系譜を浮かび上がらせてくれたようでもあり。
個人的に、アブラー博士の怒りを、まっちげさんの舞台に響き渡る激白として聞けただけでも幸せ。

ちょっぴりエキセントリックでいながら愛情深く善良な人の好さがおかしみとともにあふれていた吉見お茶の水、真面目で妻を愛する一人の男という感が出ていた寺脇ゲジヒトもよかったー。


 +

しかし、これだけ満足度の高い舞台だったからこそ、台詞だけで済まされ、その残骸が舞台前面の灰色のオブジェの中で物悲しく存在を主張していたモンブラン、ノース2号、ヘラクレス、ブランド、エプシロンの物語も、この舞台で、演出で、観たかったなあ。
最後のプルートゥとの戦いで、アトムが6人ひとりひとりのことをプルートゥに語りながらぶつける台詞が原作どおりだったので、余計に。

いつかこういう幸福かつ贅沢な形で、3次元で見ることができたら良いなと思います。
モンブランの無骨な素朴さ、ノース2号の大気に満ちる音楽、ブランドとヘラクレスの友情、エプシロンが見つけ子供たちに見せた光。

リメイクというフィルターを何度経ても見出せる、
手塚マンガに息づくロボットたちの“心”の物語を。
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