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『フィルムは生きている』と会津と佐々木
テヅカごと  2014/07/02(Wed)04:39

国書刊行会『フィルムは生きている』が届きました。

いやあ、すばらしい。実にすばらしい。
そもそも公式から、佐々木関係でこれほど大きな燃料投下があったのは、果たしていつ以来であったか。
2008年の『ライオンブックス/複眼魔人』復刻か、『芸術新潮』で森室長が「個人的に好きなキャラクター」という一文とともに公開してくださった秘蔵私物お宝の色紙2枚か、もしくは、もっとさかのぼって2005年、TVアニメ版『B・J』の『動けソロモン』回で佐々木がりっぱな二枚目ライバル(ロン毛)にグレードアップ改変されていたとき以来だったか。
これはもう涙流して、祭りじゃ祭りじゃと叫び、あがめ、たてまつるしかない。

……と、以前の記事で延々と暑苦しく語ったように大いに佐々木びいきの私としては、そんな浮かれた年表をなぞらずにはいられぬほど、久々に書き加えるべき大きなトピックの到来に歓び、打ち震えています。

何はともあれ、出演作はやたらと多い割には、案外、役自体は地味なことの多い佐々木小次郎の数少ない胸を張れる代表作が、こうして復刻されたのです。
しかも、りっぱな箱つきの本で、表紙は武蔵とのツーショット、中表紙はまさかの佐々木ソロという、驚くほどの佐々木推しなのですから、実にめでたい限りです。
これでまた次に何かあるまで待つだろう数年間、ごきげんで生きていけるわ。
ああ、ありがたい。


とりあえず、これまでの単行本で削除されていたあらすじ解説部分を今回の復刻で初めて確認でき、そこに「おぼっちゃんそだちでわがままな小次郎」と書かれてしまっている1コマがあっただけで、
はい!先生みずからの!お坊ちゃん育ちと!わがまま認定!
いただきましたアアアアアアア!
……とハイテンションで一文字一文字を愛でられるぐらいには幸せです。
そう、そんなお坊ちゃん育ちだからこそ、単純で、お人好しで、わがままと陽気なあつかましさも不思議と憎めない、自信家のあの子が大好きでたまらないのですよ。私は。


 +

ところで、今回のこのオリジナル版で確認したく、楽しみだったことがもう一点。

『フィルムは生きている』において、主人公武蔵の才能を見出し、なおかつ彼の人生のターニングポイントで背中も押してくれる、作中きってのオトコマエ編集長、盤台庄助。
この名前は、盤台(ばんだい)=磐梯山に小原庄助を組み合わせているという、明らかに会津にゆかりのあるネーミングです。

先生と会津の関わりといえば、その生涯中、私的に3度も訪れており、そこに取材して描かれた『スリル博士』の回もあるという深さがあり、2000年に『私たちの手塚治虫と会津』という愛情あふれる本が地元のまんが集団の方々の手で編集、発行されたり、また最近でもJRの新幹線車内誌『トランヴェール』で特集されるぐらい、おなじみのお話。

ストーリーの大枠は『宮本武蔵』のパロディとして展開していく『フィルムは生きている』の中では、やや唐突に出てきた感のある、この重要人物につけられた会津ゆかりの名前と、手塚先生の会津とのかかわりの間には、何かしらの相互関係があるんじゃないかしらん……と以前から気になっていたのでした。

 +

というわけで、今回のオリジナル版で確認してみたところ。
盤台編集長が初登場するのは第7回、つまり1958(昭和33)年10月。

一方、この前後の手塚先生と会津のかかわりを時系列で追ってみますと。

まず1957(昭和32)年5月、会津出身の笹川ひろしさんが上京、専属アシスタントに。

その約1年後、1958(昭和33)年4月から『中学一年コース』で『フィルムは生きている』連載が開始し、それとほぼ同時期の5月、笹川ひろしさんと同じ会津漫画研究会出身の平田昭吾さん(『B・J創作秘話』4巻にも登場)ともうお一方が上京してきて、手塚先生のアシスタントになります。

つまり、『フィルムは生きている』連載が始まったばかりのタイミングで、先生のもとには会津出身のアシスタントが3人もいたことに。
このうちお一人、平田昭吾さんとともに上京された方は、残念ながら実家の事情で1年ほどで帰郷されたそうなので、手塚先生周辺で最も会津色が濃かった1年間は、ちょうど『フィルムは生きている』連載前半に重なるのです。

手塚先生が、3人の会話を日常的に聞いていたから会津弁に達者だったとか、3人の会津弁に感化されてしまい「そうだべした」と言っていた……などというエピソードも『私たちの手塚治虫と会津』中には書かれています。え、何それ、かわいすぎるじゃないか。

そうであれば、仕事場にわいわい会津弁が飛び交っていた時期であろう1958(昭和33)年10月、連載第7回で登場させる物語のキーマンであり、主人公を新しい世界へいざなう重要人物のネーミングを手塚先生が、アシスタントさんたちの故郷でおなじみの民謡『会津磐梯山』と、その中に出てくる小原庄助さんから引っ張ってきたというのも、想像に難くないわけでして。
手塚マンガ中で、後年までやたらと、もっともじゃ〜もっともじゃ〜と小原庄助さんネタが唄われているのも、このせいなのかしらん。

 +

さて、『フィルムは生きている』でも物語が大きく動く部分、断さんの死と武蔵の絶望、そして「ハイリゲンシュタットの遺書」で武蔵が再び希望を取り戻し、朝日に向かって走りだすところは、連載第12回、1959(昭和34)年3月号だったということが、今回のオリジナル版で確認できました。
つまり『中学一年コース』から『中学二年コース』へ学年が切り替わるところで、この物語の転換点を持ってきていたわけで、ここの年度に合わせた持っていき方には、改めて、うまいなあと。

この1959(昭和34)年は、実際に手塚先生自身が東映動画の嘱託として本格的に長編アニメ映画『西遊記』の制作にかかわりだした年。
また、この年の3月ごろから新たに月岡貞夫さんがアシスタントに加わり、その月岡さんは、同年夏ごろから石ノ森章太郎先生とともに先生の指示で東映動画に行っていたことが『B・J創作秘話』等でも描かれています。
一方で、そんなアニメ制作の合間、同年4月3日から6泊7日で、手塚先生は笹川さん、平田さんを伴って、その故郷の会津へと初めての旅行に行かれているのです。

そんな1959(昭和34)年の手塚先生周辺の動向を『フィルムは生きている』後半の展開と並べてみますと。

いよいよ東映動画での仕事が本格化していく手塚先生とシンクロするように、1959(昭和34)年3月号、連載第12回では、アニメ映画への断ち切れない思いを深く自覚していった武蔵がとうとう決断をする。

そんな思い入れが空回りするように現実ではストーリーボードづくりは難航し、マンガのほうも週刊誌連載まで始めてしまったぎゅうぎゅうのスケジュールの中で、アシスタントの笹川さん、平田さんの故郷である会津若松へ初めての旅行に手塚先生が行かれた1959(昭和34)年4月、連載第13回では、アニメづくりのためマンガ連載をやめさせてほしいという武蔵の頼みを盤台編集長が叶えてやる。
ちなみに『手塚治虫物語』によれば、この旅行の帰りの汽車で、ストーリーボードの決定稿が描かれたとのこと。

そして、手塚先生が少し距離をおいて、代わりに月岡さんが東映動画に通うようになり始めていた時期だろう1959(昭和34)年7月、連載第16回では、その月岡さんの名前を入れた「ロカビリーの店 月岡」というお遊び看板や、武蔵のアニメづくりを笑顔で応援する盤台編集長などおなじみの人々の浮き立つような雰囲気の一方で、
「かんがえるのとネ やるのとはネ おもったよりうまくいかないものなのよ」
「ひとをつかうって こんなにむづかしいものとはおもわなかった…」
というアニメ制作の現実と本音を映すような苦い台詞もちらりと覗いてくる。

もちろん、雑誌の号数と実際の発売月にはいくらかのずれはあるわけですが、多少の前後はあるとはいえ、この時期の『フィルムは生きている』作中の展開と実際の手塚先生の動向との間には、密接なリンクがあるように思えてなりません。

何よりおもしろいのは、会津若松の名を持つ盤台編集長が何とも粋な一芝居で連載を切って武蔵をアニメづくりの夢へ送り出してやるという、彼の最大級イケメン炸裂回だった連載第13回が、手塚先生自身がまるでたくさんの連載から一息つくかのように唐突に会津若松へ旅に出かけた1959(昭和34)年4月とほぼ同時期だということ。

この旅から生まれ、また実際に旅行中に描かれた作品としてまず一番に挙げられるのが、先生が旅で行かれた場所、会われた地元の方々をモデルとして織り込んでいる『スリル博士/博士のノイローゼの巻』。
が、その『スリル博士』ほど直接的ではないにせよ、『フィルムは生きている』もまた、この会津の旅から先生が何がしかのものを受け取り、そして年度が変わっていよいよ本題に入っていく後半の展開につながっていった作品なのではないかな……と、どこかほのかに暖かなものを感じるのです。

 +

ところで、『フィルムは生きている』内で武蔵が佐々木をきつく責める
「あのときの佐々木小次郎の情熱はどうなったんだっ」
「連載十二本…それがきみののぞみだったのかい それが!」
という台詞。
ちょっとですね、ここはですね、佐々木びいきでなくとも、自分は連載たった1本でひいひい悲鳴を上げているくせにそれ言うのか言えるんか……とツッコミ入れざるを得ないところです。武蔵の主人公様特権に震えるわ。

そんな責められる役を哀れにも割り振られてしまっている佐々木が、『フィルムは生きている』の2年前、デビュー作である『おお!われら三人』で通っている五陵中学は、その名称などからして、明らかに先生の母校の北野中学がモデル。
(校章や同窓会の名称が“六稜”)

しかも、後に「ぼくはこの“佐々木小次郎”というのを描きたくて描きたくてしようがなくて、彼を活躍させようと(中略)このあと「フィルムは生きている」とか「複眼魔人」とかを描いていったわけです。」と、手塚先生にしては珍しく照れも落としもなくデレ全開のコメントをもらっている稀有な男こそが、佐々木なのです。

武蔵が上記のように佐々木を責める連載第10回、1959(昭和34)年2月は、実際に手塚先生自身もまた作中の佐々木と同じように軽く10本を超える連載を抱えていますので、自分でこの台詞を描く先生ったらどれだけドSだったのよ……と軽く戦慄します。
が、その台詞をぶつけられた相手が、デビュー作で自身の青春時代の場所をなぞらせ、次の作品では「活躍させ」るべく自身と同じマンガ家にした佐々木だったことを考えると、そこにあるのは単なる自虐ではなく、諧謔でもなく、佐々木自身が武蔵に「連載十二本」と誇ってみせる言葉そのものの嫌味なき自負らしきものすら感じるのです。

主人公がマンガ連載することを道に迷っているのだと断定され、自分自身もそのことでライバルを責めたて、そしてマンガをやめて晴れ晴れとアニメ制作に行くという話でありながら、『フィルムは生きている』はふしぎとアニメ至上というわけではなく。
むしろ、ただひたすらアニメもマンガも含めて「描く」こと全てへのフラットな情熱に満ちた物語になっている。
その理由は、恐らく、先生の理想へと武蔵をまっすぐ背中押しする盤台編集長とともに、先生の現実(それは突然思い立って旅に出たとしても抗えなかったもの)を投影され背負うことになりながらも陽気でわがままで憎めない自信家であることを貫いた佐々木という男が、絶妙のバランスで物語を支えたおかげなんだろうなあと。


改めてそう思えた、今回のオリジナル版でした。
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