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アセチレン・ランプは猫を手放さない
テヅカごと  2014/05/05(Mon)15:34

ここ何カ月間か、ランプさんのことをぐるぐる考えていたことのつぶやきなど。



初期作品から手塚マンガ世界に入っていった自分にとって、輝かしい悪役としてまず挙げられるのがアセチレン・ランプなのですが、その描かれた様で印象的なのは案外、作品中で敵役として憎々しげに暴れる姿よりも、死に直面したときの姿であったりします。

中でも強烈なのは、逆らえない死にやがて敗北しつつも、なお何かに執着しあがく姿。
救おうと伸ばされたヒゲオヤジの手を振り払ってまでポケットの金を守ろうとして愚かにも落ちていく『来るべき世界』、トランクいっぱいの財産を抱えながら人類の墓標のように氷雪に包まれていく『0マン』の死に顔などは、その執着が強ければ強かったほど惨めであると同時に鮮烈で、まさにトラウマの極みです。


そんなすさまじい人間の欲望と執着心をさまざまな形で見せつけてくれるランプの役遍歴の中でも、ひとつ毛色が変わっていて個人的に好きなのが『大洪水時代』。

脱獄囚としていつもどおりの悪役として振る舞いながら、しかし、日本を覆う大洪水という大災厄で死に直面したとき、おびえ、震え、ヒゲオヤジに蹴りつけられ、なぜ俺をそういじめるんだと情けない泣き顔をさらす。

そして、このとき、生きよう助かろうと必死に箱舟を造ろうとする人たちの中にあって、ボヤボヤするなという罵倒に、俺はばかだ臆病者だと泣き叫びながらも、ランプが大事そうに持ってきて手放そうとしないのは、金でも食料でもなく、一匹の猫なのです。

ランプは、なぜここで猫を持ってきて抱くのか。

いや、むしろ、他作品の役で一見、ランプが執着しているように見えるものと、この猫との間には何か違いはあるのか。

 +

というわけで、さらに他のランプの主な役を見ていきますと。
例えば、『キャプテンKen』ではみなし子の自分を拾ってくれたというデブン知事への恩を銃で返そうとし、『W3』では基地を守るためならばどんな非道も平然と行ない、『アドルフに告ぐ』では総統のアキレス腱である文書を隠滅するため暗躍する。
そこには、物語上のポジションとしては悪役でも、自分が属し仕える何がしかへ彼なりの忠義を尽くすという役が、もう一つの大きな系譜として見えてきます。

その系譜をさかのぼっていくと、突き当たる一つの初期作品が『平原太平記』。

原の開発などせず捨て置けという殿の言葉どおりの立場を固守する姿は、たとえ意味はわからずとも上官の命令には逆らわないとみずから言う『W3』のようであるし、何度も何度も、たとえ新時代が到来しようと旧藩の名を語りあらわれる不気味なまでの姿は『キャプテンKen』『アドルフに告ぐ』のしぶとさ、恐ろしさの原点のようでもある。


しかし、この『平原太平記』のランプ=柳生周馬が、何にそこまで突き動かされているのかというのは、実は作中でそこまではっきりと明示はされていません。

官軍を迎え討つため足伏が原を焼き払うことを進言するあたりは、単なる前時代的思考による忠義心や殿のイエスマンを超えていますし、ではクライマックスで告白する「拙者は須田紋左にふかいうらみがあるのだ」のとおりなのかといえば、その恨みとやらの原因が何なのかは明かされない。


であれば、彼の動機と本音が最もあらわれているのは実は、それに続く
「ここが もとの荒野になるまで 拙者はのろってやるぞ」
という台詞のほうだったのではないか。

「もとの荒野」=世界が変わらぬままであることへの願いこそが、この作品で彼が見せる不気味な執着心の正体として、正解だったのではないかと考えられるのです。

新しい時代の象徴である製糸工場の歯車に、旧時代の象徴である刀を何度も突き刺しては狂わせて止めさせる彼が愚かしいまでに殉じているものは、切り拓かれていく足伏が原の一方で消えていった藩や殿への忠義ではなく、憎いと語る男への恨みですらもなく、実は変わり移ろいゆき取り残されていく時代そのものだったのかもしれません。

 +

そんな『平原太平記』からランプの役をたどっていくと、彼が見せる執着心にはまた別の姿が見えてきます。


『W3』では、もはや任務というレベルを超えた私情で、宿敵と思い定めた星光一との最期の決着にこだわりますが、それに彼が踏み切って死んでいくのは、それまで非情卑劣なまでの堅い姿勢で守っていた基地がいよいよだめになり、崩壊しかかった島を見捨てていく島民たちに「逃げろ逃げろ」「でていっちまえ!」と投げやりな言葉をぶつけた後。

『キャプテンKen』では、Ken、伝説の男シェパードに対してまで勝負を何度も迫るものの、それがお望みどおりクライマックスを迎えるのは、彼が属さない新しい代の子供たちが人間代表としてこの星の行く末を決め、全ての悲劇が回避されるだろうもう一つの未来への分岐点に差しかかる直前であって、そしてランプ自身は、彼が生きる糧としてきたその腕のインチキを暴かれ、彼が属していたものたちとともに敗北していきます。

『アドルフに告ぐ』では、彼が仕えるもののを脅かす存在を葬るため、あれほどの執拗さで任務をこなしてきていながら、「我がドイツはもう最後ですな」とその終わりを悟ったときには、それまでの冷酷な忠実さと同じ淡々とした態度で、その終結にあっさりみずから手を下し、自分自身の姿すらも物語から消して去っていく。


ランプが執着して殉じる、もしくは彼自身の欲望の成就とともにに道連れにして去っていくのは、いつだって、滅んでいく旧世界であり、消えていく古き時代なのです。


だからこそ、ランプは、『荒野の弾痕』で、戦争が終わったとたん厄介者扱いになったことを恨む旧時代の遺物のようなダッドレイと行動を共にし、その彼がいざ新しい時代に「善人づら」でおさまろうとすれば気に入らないと責めるのですし、同じ西部劇の『サボテン君』では、終わりの見えなかった2つの家の争いがようやく収束しようとするとき、その変化をとどめようと、ついには手塚先生本人がみずから出てきてあきれながら後始末しなければならないまでに、しぶとく暴れるのです。

だからこそ、『太平洋Xポイント』で、かつての時代を忘れたかのように妻子との新しい生活を平穏に送るサムには、過去を忘れることなど許さないかのように不気味につきまとうのですし、その逆に『おれは猿飛だ!』では、「わしがこんな役をするのは珍しい」とみずから笑って言うような善人役として、やがて滅びる運命である豊臣方の真田大助少年に優しい眼差しを向けるのです。


であれば、『来るべき世界』でランプがロケットに積み込んでいった金も、『0マン』で凍っていく地球から持ちだそうとしたトランクいっぱいの財産も、それらは、ランプの“悪役”として、もしくは“人間”としての愚かで弱くて浅はかな欲望と執着心のわかりやすい象徴というよりは、むしろ、ランプが殉じ、ランプとともに敗北して潰え去っていく旧時代の象徴といったほうが正解かもしれない。


よくよく考えれば、貨幣価値ごと世界が滅びようとするときに「世界一の金持ち!」と笑いながらロケットに金を積み込むランプが実際に地球から持ちだそうとしていたのは、知ってか知らずか、実は、その意地汚いまでのバイタリティでのし上がり、今まさに地球とともに滅びようとしている人間社会の制度と価値観そのものだったわけですから。

新人類フウムーンが、破滅する地球から種の保存のため動植物を採取して救い出し、ロケットで宇宙に持ちだそうとしていたことと同等の行為として。

 +

そのように、ランプがその執着心で自身とひもづけしているものが滅んでいく旧世界なのだとすれば、それはまた裏を返せば、ランプがその執着心とともに退場していくことと引きかえのように、いつでも物語は、その先に新しい世界を用意しているとも言えます。

それは例えば、初期の代表作『ロストワールド』において、植物性人間2人のうち、ランプの食欲という名の生への執着の犠牲になることを免れることができたあやめが、ママンゴ星において敷島と結ばれ、新しい星の新しい種のアダムとイブになれたように。

例えば『地球を呑む』で、ランプという一人の男に対する恨みが、金と法律と男を含めた「世の中全部」をめちゃくちゃしろという母親の呪いのような遺言となり、その娘たちの復讐によって世界は崩壊し、ゆっくり新時代へ移行していったように。

例えば『未来人カオス』で、ランプが悪辣な強制労働星の所長として君臨するバカラ・サテライトが、彼の死とともに一旦破滅した後、まるで『火の鳥未来編』のような再生の試行錯誤の末に、“母”となることを目的にやってきたマユの到来によって、徐々にその星としての形が定まっていったように。


ランプが抱えこみながら滅んでいく旧世界。
そして、その先に物語として勝利し提示されるべき新世界へつながっていくのは、いつでも“母”であり“女”たちなのです。

 +

さて、そうなってくると、『大洪水時代』で世界崩壊のときに恐怖に怯えたランプに抱きしめさせるため手塚マンガ世界が用意するのは、やはり猫しかなかったと言えます。

『猫の血』では核戦争後の世界へ、『二人のショーグン』では新しい学校と生活へ旅立つ汽車へ、愛する男を追いかけてたどり着く“女”の執念を見せ、『おけさのひょう六』では主人が目を潰され彼が愛した女が売られていく敗北の横でしたたかにその意志を継ぎ、『ミッドナイト』では崩壊するビルから子供とともに脱出して“母”として新しい町へと生き延び、『B・J/猫と庄造と』では哀しい思い出の土地から去っていく男に“妻”として力強くついて歩いていく、猫たち。

『動物つれづれ草』で、手塚先生自身がネタ混じりながらも“女”との類似点を18点も挙げて考察されたのが、手塚マンガ世界の“猫”という生き物なのです。


『大洪水時代』ランプの横で繰り広げられていた“母”の死をめぐる兄弟のドラマ。

ランプは、その兄弟のうち“母”の幻を大事に抱え続けている鯛二に「ゆきたまえ」と励まされて立ち上がり、“母”にかわいがられなかったという確執を持ち続けた鮫男がまるでいつもの彼の役回りの身代わりかのように死んでいくことで、生き延びます。

洪水によって旧世界とともに滅びていくことなく、「死んだつもりでいっそ いいことをしてしてしつくすぜ」と生まれ変わったことを自覚し、観察者に「人類はまだまだ滅びはしないでしょう」と明るく語られるような姿で箱舟が流れていく新世界へと生き延びることができたこの物語のランプ。
その結末への途上で彼が必死で抱きしめるにふさわしいものは、金や食料でなければ、犬でも小鳥でもなく、やはり猫でしかあり得なかったのです。

 +

東京の雑誌での初連載が始まり、徐々に手塚先生の仕事の軸足が移行するきざしが見え始めていた赤本時代終盤の1950(昭和25)年に描かれた単行本『平原太平記』。

その中で「ここが もとの荒野になるまで 拙者はのろってやるぞ」と言いはなち、旧時代に殉じてともに消えていったランプ=柳生周馬という男の呪いは、その3年後の1953(昭和28)年、『鉄腕アトム/赤い猫の巻』で、同じように切り拓かれていく原野の様を呪い、その変化を止めようと抗う猫又教授によって再現され、そしてこの作品では、教授が猫を相棒にすることで、『平原太平記』とは異なり時を止めることができます。

それを経た2年後の1955(昭和30)年、かつての赤本時代の再来かのように描き下ろされていった別冊付録の1つ『大洪水時代』において、その猫を抱きしめることで、ランプは滅んでいく旧世界とともに死ぬことなく、箱舟で水平線の向こうへと生き延びていく。

だからこそ1959(昭和34)年、今度は月刊誌から週刊誌へという大きな変化が起きていたのと同じ年にもう一つの大きな変化、漫画的描線と劇画的描線という変化を盛りこんだ実験作『落盤』で、ランプはその描線という次元の旧世界と新世界の間を軽やかに行き来してみせるのです。
その後もまた幾度となく手塚マンガ世界に訪れる変化の中で、旧世界に殉じる死を繰り返してはまた性懲りもなく生き返る、その執着心とバイタリティとしたたかさの鮮烈さを予兆するかのように。

 +

宇宙の虚空に浮かぶ星となったみずからの死も含め、それは新しい星のアダムとイブにとって「かえって幸福だったかもしれない」とヒゲオヤジが物語をしめくくった『ロストワールド』から始まり、やがて“母”不在の家で子供を子供のあるべき世界へと送り戻す『七色いんこ/俺たちは天使じゃない』、旧世界にみずから引き金を引いて幕を下ろし、みずからも去っていく『アドルフに告ぐ』まで連なるランプの役遍歴。

その中で、小さな飛び石のようにすら見える『大洪水時代』。


アセチレン・ランプは猫を手放さない。手放せない。

たった2コマでしかないその姿はしかし、『来るべき世界』『0マン』『W3』などの大役でランプが、旧時代に執着し旧世界に殉じようと抗う姿が時に惨めでエゴイスティックで無様だからこそ、なお一層強烈な印象を残す死の瞬間と同等の鮮烈なドラマを見せてくれ、また手塚マンガ世界の愛おしいパーツの一つを提示しているように感じるのです。
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