アリトホシクズ

 テヅカオタクの楽描きと語りとメモ
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マンガ家ドラマとマンガ家マンガ
テヅカごと  2013/10/19(Sat)00:54

「神様のベレー帽」
http://www.ktv.jp/beret/index.html

ようやくテレビをゆっくり占領できる時間ができたので、録画視聴。

前にキャスト発表されたときの予想を裏切らない爽やか先生だったー。

先生にしてはおっとりゆっくりなしゃべり方だなあと観ていたんですが、抑揚のつけ方が、公の場での先生のしゃべり方に似て聞こえるところが時々あって、おおっと思ったり。

しかし、原作マンガでは、執拗に描き込まれた汚れと汗と無精ヒゲとで、あれだけ恐ろしくむさ苦しい生きるか死ぬかの戦場になっていた原稿待ち編集者たちの修羅場風景も、ドラマでは、一応は切羽詰まっているものの、どことなくのほほーんとした“僕らのオサム先生をあきれつつ暖かく見守る会”的な空気になっていたのは、ドラマの趣旨のせいなのか、カワイイ女の子目線に脚色した画面中和力のせいなのか。

そしてまた、それだけ爽やか+カワイイのフィルターでいくら中和して描いたとしても、あの実話の壮絶さを中和しきれない先生の仕事量には、やはり改めてしみじみとせずにはいられませんでした。
振り回される周囲の人も、そして自分自身をも熱に浮かされるようにどうしようもなく突き動かしていく、描いても描いても描かずにいられない創作者の業のようなものに。

前の記事でも書きましたが。
やはり私が『B・J創作秘話』(もしくは手塚先生の思い出を語る人々の言葉)を読んでいてすごく惹かれるのは、“天才”が“凡人”を暴風雨のようなむちゃくちゃさで巻き込んでいってしまう創作現場に満ちていた幸福な熱気と狂気、しかしそれすらも今は愛おしさとわずかな痛みを含んだ追憶として人に語らせてしまう“天才”だからこその輝きと表裏一体の恐ろしさという部分なんですよね。
それを可能にしただけの才能と、だからこそ読める作品群に感謝と敬意を払いつつ。

というわけでドラマのラスト、何となーく新社会人ガンバレ!的なイイ話として笑顔できれいにまとめられそうになっても、いやいやいや、ごまかされないからね!先生の綱渡り壮絶修羅場話って実は全然イイ話じゃからね!と
赤塚「これでいいのだ」
壁村「よくねえよ」
というあのワンシーンが頭のなかで繰り返し再生されてしまったのでした。

とりあえず、現代に戻った小田町ちゃんは、壁村編集長がいつも原稿ギリギリの先生に対して実にまっとうな苦言をぐっさり呈するシーンが入っている『B・J創作秘話』原作マンガの最新刊も、この新社会人研修のシメとして読んでおくべきだと思うよ。


それにしても、一部キャストが朝ドラ版『ゲゲゲの女房』とかぶっていた(しかも役柄も似ていた)のは偶然なのか狙っていたのか。

こうなったら、いっそドラマとは別に映画版もつくられちゃうところまで『ゲゲゲの女房』と同じになればいいじゃない。
次は、今回のちょい悪ダンディどころじゃない壁さんが、酔って凄む迫力のアクションシーンもよろしくお願いします。

+

ところで、ドラマが放映された次の週、テヅカオタク的に待ち焦がれていたマンガ家マンガの第1巻目が偶然ながらも同じ日に発売されました。

チェイサー 1 (ビッグコミックス)    フイチン再見! 1 (ビッグコミックス)
(表紙の絵がたまらなくすばらしいので、画像を貼っておく)

『チェイサー』は、アンチ手塚を装いつつも実はものすごい手塚マニアで手塚を意識しては空回りしてしまう架空(否、実在?)のマンガ家が主人公のお話。
『フイチン再見!』は、『フイチンさん』の上田トシコ先生の伝記マンガ。

どちらも昭和30年代が舞台のマンガ家マンガという共通点がありますが、もう一つ面白い共通点は、『チェイサー』の主人公海徳は手塚先生と同じ歳設定、『フイチン再見!』の主人公上田先生は手塚先生より11歳上ということなのです。

これって、実は今までの昭和マンガ家マンガに出てくる手塚先生として、余りなかった形なんじゃなかろうか。

『まんが道』では背中にどーんと宇宙を背負った憧れの“神様”として描かれたり、また『劇画漂流』ではちょっと年上の上品で頼もしいお兄さん的存在として描かれたりなど、トキワ荘系譜にしろ、劇画サイドにしろ、戦後マンガ史を題材にしたものに手塚先生が出てくるときには、角度や形は違えども大体“下から見上げる”目線で描かれるのが主流。

しかし、例えば『チェイサー』では、自分と手塚が同じ歳だと知った主人公海徳が、ますます強烈にちくしょう手塚めえええ!とライバル心を燃やしますし、『フイチン再見!』では、40代に入る上田先生が手塚先生を見て「あなたは天才だわ そしてわたしよりずっと若い…」と自分の来し方行く末をしみじみ考えさせられる。

このように同じ歳、もしくは年上からの目線で描かれる手塚先生は結構新鮮です。


ちなみに先日、新聞の映画コラムのゲストとしてコージィ城倉先生が『アマデウス』を取り上げていた回によると、『チェイサー』の海徳と手塚の関係はサリエリとモーツァルトも意識しているらしい。

これを読んでまっさきに思い出したのは、2009年に復刻された『新宝島』付録『新宝島読本』に掲載されていた中野晴行さんの解説。

ここでは、酒井七馬先生が若き手塚先生に『新宝島』合作を持ちかけた経緯について、ベテラン酒井が、若き手塚青年に自分にはない「躍動感=動き」の才能を見出し、しかしまだ未完成で荒削りのそれを自分こそが磨きたいと願ってしまったのでは……と仮定し、
「サリエリ同様に、超天才と出会ってしまった七馬の不幸は、原石を珠に磨いてみたいという誘惑に負けた瞬間に始まっていた」
と2人をサリエリとモーツァルトに例える、実に燃える一文が書かれているのです。


というわけで、そろそろ大御所でもベテランでも先輩でもない、そんな“横”もしくは”上”から目線で捉えた若き手塚青年というものも、マンガ家マンガだけではなくドラマや映画のほうでも見てみたいなーと思うんですけれど、どうなんでしょうね。

自分のマンガの冒頭で「これは漫畫に非ず」と堂々宣言しちゃったり、自信満々で新聞社に売り込みの手紙を送りつけたり、自分のマンガが印刷物になることに浮かれたり、酒井先生の先輩としての修正指導に反発を覚えたり、加藤編集長の懐の深さに甘えきったり、そういう、ほとばしる才能と若さゆえの怖いもの知らずな勢いとが、ときにアンバランス、ときに勇み足になりつつも、自分の描きたいものと時代の流れとが噛み合う幸福な高揚感のままに駆け抜けていった手塚青年の10代から20代……
……という観点での手塚治虫物語も観てみたいなー。観たいなー。観たいよー。


その点では、2010年に三谷さんの長編昭和ドラマで藤原竜也が演じた手塚先生には、それに近い気配が感じられて結構お気に入りだったんですよね。
姿かたちは笑えるぐらい全く似せてないんですけれど、あふれる才気のままに嬉々として「世の中の厳しさ」すらも織り込んだマンガをざかざかと描いていく姿が、少ないシーンながらもすごく良くて。
その熱量が、周りの平凡な人間に「自分にもできるかも…」と一種の錯覚を抱かせてしまったり、しかし才能でできることの差という現実を思い知らせて打ちのめしたり、創作に対する強さ鋭さとともに実は周りをも傷つけかねない、圧倒的“才能”というものが持つよく斬れる刀のような両面性が、さりげなく描かれていたんじゃないかなーと。
このドラマの主人公たちが、偉人でも有名人でもない“何者にもなれなかった人々”というコンセプトだったから、余計にこの対比がおもしろかったのかも。


ここ最近の手塚関連書籍といい、今回のドラマといい、“人間”手塚治虫を描こうとする趣旨のものがふえてきているので、次はいっそ、そんな若くて青臭くてちょっと無自覚に残酷なワカゾー治虫像が描かれてもいいんじゃないのかな。

手塚が決して全ての始まりなのではなく、戦前から続く大きな流れの中にある戦後マンガ史への再認識という意味でも。


そんなことを夢見がちに考えてしまった、今月のマンガ家ドラマとマンガ家マンガ鑑賞ラッシュなのでした。

 +

ちなみに『チェイサー』は、手塚ヲタの人で未見の方にはマジでおすすめしたい。

『おれはキャプテン』で見せてくれている見事なちばあきお先生オマージュもすごく好きでしたけど、そんなコージィ城倉先生の絵で描かれる昭和30年代マンガ家残酷物語と、シルエットしか出てこないのに濃密な手塚先生の気配という雰囲気がたまらんのです。

本棚にずらりと並ぶテヅカ単行本の大きさ違いやロゴ、ちらりと見えるだけなのにこれはあの作品のだなーと分かる手塚マンガ原稿など、細かいところまでマニアックな描き込みが読んでて楽しいし、何より主人公海徳のねじれたテヅカ愛がすばらしいのですよ。

『おれはキャプテン』ではコージィ先生の描かれる赤面涙目萌えでしたが、『チェイサー』海徳で蒼白脂汗顔萌えという新しい境地まで開かれたわどうしてくれよう。


あと手塚ヲタとしては、主人公海徳の担当編集者3人の名前が、それぞれ欄布(ランプ)氏、刃矛(ハム)氏、六狗(ロック)氏となっている細かいお遊びが楽しいのです。

その中でも、海徳の手塚コンプレックスを絶妙に突いてくる精神攻撃で海徳をうまく手玉に取って転がして描かそうとするのが六狗(ロック)。
「あんたのためだ」とそれなりに親身にアドバイスしようとするのが欄布(ランプ)。
海徳に五千円借りちゃったがために微妙に立場が弱くて無茶を押し切られるのが刃矛(ハム)というこの細かい割り振りには、ちょっとにまにませざるを得ません。
そして後半に出てくる4人目の担当・日下(ヒゲ)氏は、ヒゲオヤジなんだろうか。


第1巻ラストは『花とあらくれ』が出てきたことから昭和34年末ごろのようですけれど、このままどこまで描いていってくれるのかが気になるところ。

おもしろブック編集者に海徳が「集英社さんは週刊誌ださんの?」と聞いたり、冒険王編集者としてカベさんが名前だけ出てきたり、後々の時代への伏線をにおわせてドキドキするものがちらほら出ているので、このまま海徳にはマンガ家としてしぶとく生き延びてもらい、ジャンプ、チャンピオンの時代まで手塚先生を追跡(チェイサー)していってほしいものです。
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