アリトホシクズ

 テヅカオタクの楽描きと語りとメモ
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ロボット法とロボット三原則の狭間で
テヅカごと  2011/04/07(Thu)18:26

もう一度出会う

△クリックで全体図


もしも、あの雪の日の再会がもう少し前だったなら。
アトムが小学校に行き始めて進級する前か、もしくはロボットの二親がまだ「機械みたい」と言われて悲しがられているころだったなら。

もしかしたら…ということをつい考えてしまいます。
「アルプスの決闘」オリジナル版のあの雪のシーンを見るたびに。

「しってるはずだ しってるはずだ」
と天馬に2回繰り返させる、ここのセリフ回しがたまらなく好きだ。


 +


テヅカと話がずれますが、来年の大河ドラマが今から楽しみなのは、久々の戦国&幕末以外で、大好きな源平で、その上、脚本があの藤本さんというのもあるんですが。
音楽担当が平成アトムの吉松さんだよ!というのも、また期待値があがる理由です。
「天馬博士の野望」は実にいい父子燃え楽曲。心の殿堂入り。

いい父子ネタが、これまたゴロゴロ転がっている清盛周辺のことなので、来年は新たなる燃え曲が聞けるのかな。楽しみ。


 +


というわけで、4月7日になるとアトムに心が向くのは、テヅカファンの習いだからいいとして、そこからどうしても天馬親子に向かってしまうために、毎年誕生日らしからぬ心持ちになってしまうのは困ったものです。これだからオタクは。

毎回、何気なく「天馬親子」と書いていますが、作り手とロボットを「親子」と表し、その関係が尋常ならざる「親子」になっていくところが、「鉄腕アトム」はやはりロボット三原則ではなくロボット法の世界なんだと改めて思わせるところですね。
アトムしかり、クレオパトラしかり、プークしかり。
ここが、私が常々「鉄腕アトム」は“父子”の物語だと言っては、燃えている理由。

「アルプスの決闘」の雪の再会シーンも、ロボット三原則ではなくロボット法の世界だからこそ描ける切なさなんだろうなあ。

数年前に一度、ロボット三原則とロボット法の違い、そして自分がテヅカロボットたちに燃える理由について書いてみたんですが、4月7日といういい機会ですので、ちょっと加筆修正して再度まとめてみます。

↓続きからどうぞ
 +  +  +  +  +  +  +  +


2003年の平成アトムのころから、時々目にしては、あれ?と思わずにいられなかったのですが、「鉄腕アトム」のロボット法と、アシモフのロボットシリーズのロボット三原則、この2つを混同する人、もしくは同列に扱う人は意外と多いです。

確かに、どちらも似たような時期に創造され、どちらも後のロボット作品の基礎となっているという、似たような立場。
自覚的に同列のものとして扱っている人もいるんだろうと思います…が。

しかし、手塚治虫とアシモフ両方愛している一人として言わずにはいられません。
いや、ここは言わせてください、無機物萌えオタクの矜持。


そもそも、「鉄腕アトム」に代表される手塚作品のロボットとアシモフ作品のロボット、また、それに対応するロボット法とロボット三原則は、その根っこからして属性が違う、全く別個の存在だと私は思うのです。
OSでいうリンゴと窓よりも、その隔たりは遠い。

ともにロボットの行動を制限するこの2つ。そのために生まれる葛藤や物語、ときには悲劇すら…という結果は似ているとしても、

・ロボット法 → ロボットの行動を制限する 【外的】要因
・三原則   → ロボットの行動を制限する 【内的】要因

と分類できます。
アシモフロボットは、たとえ無自覚でもロボット三原則を破れば、生命の危機という結果が生じますが、逆にテヅカロボットの場合は、電子頭脳がどうかなった(いわば良心という安全弁が外れた)結果がロボット法を破るという行動であって、ロボットの生命自体に問題はありません。
ですから、この2つを人間に例えると

・ロボット法 → 法律
・三原則   → 本能(もしくは生理的欲求)

と考えた方が、よりわかりやすい。


なので、やや極端に言ってみれば……

ロボット法による世界観の「鉄腕アトム」テヅカロボットは、
人間でありながら人間でない(と扱われる)ので、
すべての悲劇は、そのジレンマに由来します。

ロボット三原則による世界観のアシモフロボットは、
その存在の前提からして、元々が人間ではないので、
だから、そのようなジレンマからは解放されているのです。


話は少しずれますが。
手塚マンガの数多き異形たちで、アシモフロボットに最も近いのは、実はアトムのようなロボットではなく、むしろ「0マン」の0マンたちかもしれません。

0マンのリッキーは、自分が人間ではないことを自覚し、受け入れ、誇りにすら思っているので、人間に人間として育てられ、人間に味方しても、ついには人間に同化せず、当然の行くべき道として人間との決別を笑顔で選びます。
だからアトムのような「人間のため」の自己犠牲的死とも無縁でいられるのです。

アシモフロボットで最も人間臭い?ダニールは、人間のために自我と能力を手にして、万年単位の人類史を織りあげていきますが、それは、あくまでも自分が人間と異質の存在であることを意識しながら、しかも自分=ロボットがいない未来を選択した上でやっているのです。
だから、献身的でその健気さに心うたれることがあっても、彼もまた、アトムのような悲劇的自己犠牲の死とは無縁でいられるのです。
それを人間ベイリとの友情を土台として描く絶妙なバランスがまた面白いんですが。



「鉄腕アトム」に漂う湿気を帯びたもの悲しい雰囲気と、アシモフ小説を覆うクールでからりと乾いた空気との違いは、まさにこのロボット法とロボット三原則の違いにあるのではと。
ダニールとベイリの友情のバランスは、ロボット三原則のアシモフ世界でなければ描けないでしょうし、逆に天馬博士という存在が持つ危うさと切なさも、ロボット法のテヅカ世界でなければ描けないんだろうなあ。
で、どっちも好きだからこそ、別個の存在として扱われてほしいのですよ。


 +


ちなみに、このロボット三原則と明らかに違うロボット法的テヅカロボット観が、実は最も顕著に面白い形で、アニメにあらわれていたのが平成版アトムだったんじゃないか…と思うのです。主張しちゃうよ。

平成アトムでは、世界初の“心を持ったロボット”アトムを天馬博士が造り、後に、そのAI設計をお茶の水博士が一般に開放し(これ、法的に問題はなかったんですかね…さすがは治外法権なテヅカワールド科学省)、そして民間でも“心を持ったロボット”がどんどん作られていき、やがて青騎士の反乱につながって……という流れがありました。
この場合の“心を持ったロボット”こそが、テヅカロボット。そして、それ以前のロボットが、アシモフ的ロボット三原則ロボットに相当するのでは、と。

平成アトムの世界では、アトム以前の旧型ロボットたちも喜怒哀楽の感情をあらわしており、彼らも“心を持ったロボット”なのではと思えます。
しかし、彼らがアトム以降のロボットと明らかに違うのは、人間に故意に逆らえる能力を持っていない、つまり、あらかじめ組み込まれたプログラムとしてのロボット三原則(に相当するもの)を踏み越えることはできないのです。

ですから、平成アトム世界の“心”定義とは、すなわち“感情”ではなく“自由意思”。

原作アトムが、怖い、恐ろしいなどの感情や美的感覚を持っていなくても、プログラムを越えた自意識と自由意思は持っていたことを考えると、その自由意志を“心”と表現した平成アトムのこの世界観は、とても面白いです。
もっと端的にいえば、平成アトムの“心を持ったロボット”とは、つまり原作「鉄腕アトム」では青騎士型ロボットが最も近いのかもしれません。


平成アトムにおいて、アトムも初めは一見、旧型ロボットたちと同じように三原則を踏み越えない子に見えます。
しかし、それはただ、プログラムによって「できない」のではなく、みずからの意思で「しない」ことを選択しているだけなのです。たとえ初めは無自覚であっても。
アトムだって人間に逆らおうと思えば、いつだってそれを選択できる。
その可能性は、アトムと同じ“心を持ったロボット”アトラスが人間に逆らって暴れることを楽しみ、青騎士が人間との戦いをみずから選択するときに明らかになります。


そして、それが明らかになっていくにつれ、“心を持った”アトムにみずからの理想を託すそうと暗躍する天馬博士がすばらしい。壊れっぷりも含めて。
彼が何度も口にする「進化」とは、ロボットが後天的学習によって製作者の意図=プログラムを超える自由意志を持つこと。つまり、それこそが“心を持ったロボット”。
彼が「いつか人間を超える」と豪語するロボットの理想の形。

そんな天馬博士がアトムに望む進化は、いつか自由意思を発動して人間に逆らってくれることです。
だというのに、当のアトムはといえば、製作者のプログラムを超える自由意志を持っているがために、製作者の天馬の意思に逆らえてしまって、その逆らった結果が、天馬がロボットの自由意志に最も反すると考える「人間との共存」だという皮肉な結末。

もう…ですね。
原作アトムで、たとえば「フランケンシュタインの巻」で「もう我慢できません」と叫んで悪人をメタメタにしちゃうアトムが見せる、やろうと思えばできちゃうんだよ!という可能性であるとか、たとえば「青騎士の巻」で出てくる「青騎士型ロボット」という定義に垣間見える、ロボットの電子頭脳が持つ自由意思は、どこまで飛び超えていけるかという可能性であるとか。
そして、「アトム大使」で、子=アトムの成長を最も望んで、それがかなわないと考えたときに最も絶望しながら、実は成長による自由意志の芽生えを最も恐れて、うろたえたのは、この天馬博士本人だったという皮肉に見える、自由意志を持ったロボットを鏡としたときにあぶり出される人の心の可能性であるとか。

原作でちらりちらりと断片的に語られていた、そしてアシモフ的ロボット三原則世界観とは明らかに異なるテヅカロボットのジレンマを、ここまで明瞭に、面白い形に昇華してくれただけでも嬉しかったし、その矛盾と皮肉をわざわざ天馬という人物に体現させてくれたところも拍手だったのですよ、平成アトム。

※製作者のそういう意図が、本当はこうしたかったけどできなかった感(…涙)が見え隠れするところも、私が平成アトムを今でも愛さずにはいられない理由なんですが…


 +


このように、ロボット三原則的アシモフロボットとまた異なる世界を形成している、ロボット法的テヅカロボットの世界観は、平成アトムを通しても改めて浮かび上がってきます。

その片鱗が実は、既にアトム登場より数年前、御年16歳の手塚先生が描かれた「幽霊男」にあらわれているのが、また面白いのです。

しかも、一見アトムのような(実際ルーツともいわれている)人間型ロボット毒蛇姫には、自由意志で製作者の意図を踏み越える行動をさせておきながら、スイッチひとつで忠実な機械人形になり果ててしまうという縛りを与える。

それでいて、一見ただの機械人形のような労働用ロボットのプポ氏には、
「たとえ機械でも人間と名のついた我々です」
とまで発言する自我と知性と尊厳を与え、しかも
「生まれて何の愉しみがありませう」
「寂しく壊れてゆくのを待っているのですが いっそ誰かいっぺんで壊してくれないか」
「それが我々にとってこの上ない悦びです」
…と、自らの尊厳を守るために自らの機能を絶つという、ある意味、毒蛇姫以上におそろしく人間くさい自我(と悲劇)までも与えているのです。
なんというフェイク!


「幽霊男」が描かれたのは、1945年4月。

確かにこの6年前には、自らの無実を証明するために自殺するロボット、アダム・リンクのお話が既に海の向こうで書かれていますし、さらにさかのぼって1930年の日本でも、労働者の悲憤に同調したロボットが自殺するという漫画が描かれています。

しかし、あの1945年という閉ざされた時代に、内に膨らむ自我でいっぱいいっぱいの思春期を生きていた16歳の少年が、それこそ、己の自尊心も自意識も命もへったくれも無いような状況で、こんなみずからの尊厳のために死を望むロボットを描いていたという事実だけで、もう泣けてくるじゃないですか。


それを思うと、「幽霊男」から約半世紀後の2001年に公開された映画「メトロポリス」のなかで繰り返される「私は誰?」というティマの台詞は、スイッチひとつで簡単に自我が切りかわってしまう毒蛇姫が、数十年を経て発した叫びともいえるし、また一方で、自我を持ってしまったがためにかえって死すら望んでしまうプポ氏の影ともいえる。

それでもテヅカロボットたちは、「火の鳥未来編」で知力と自我を持ったことを嘆きながら無力に死んでいったナメクジには、決してなりません。

「幽霊男」の直接の改変ともいえる原作版「メトロポリス」では、毒蛇姫の末裔であるミッチイが、人間として生き、人間の親を探しながら、人間に裏切られ、やがてプポ氏の末裔であるフィフィたちに請われて、人間に敵対するようになる。
スイッチで人間に切りかえられていた自我を、ロボットみずからが選択するのです。
それが、製作者である人間に敵対することであっても。

また一方で「メトロポリス」の直後、もう一人の毒蛇姫の末裔として生まれたアトムは、人間として生き、人間の親に捨てられたのち、今度は、人間の味方として生きる自我をみずから選択します。
お茶の水博士という偉大なる凡人を通して。


空っぽになったコップに、どんな水を注ぐのか?
フィフィが請う道か。それとも、お茶の水博士が諭す道か。
ミッチイとアトムとの道の分かれ目はまさに、人間としての自我を失ったところで、誰に出会って、誰にロボットとしての自我を指し示され、そしてどちらをみずから選ぶかの違いだったのですが、この2つの道と可能性を、その作品世界の初期に提示したことこそが、テヅカロボットたちを、アシモフの三原則ロボットとは異質のロボットとしている部分だと思うのです。

プログラムを軽く越えていってしまう可能性と、不安定さと、揺らぎと、美しさと。
だからこそ、テヅカロボットたちにはロボット法という外的要因が必要なのです。
だからこそ、テヅカロボットたちがロボット三原則的な良心をみずから選択することは、何よりも尊いのです。

数ある可能性の揺らぎの中で、アトムが選んだ道の確固さ。

そして私は、そんなテヅカロボットたちを、そんなテヅカロボットだからこそ、きっと愛さずにはいられないのです。



(2007/10/07に書いたものを加筆修正)
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