アリトホシクズ

 テヅカオタクの楽描きと語りとメモ
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2月9日
テヅカごと  2016/02/09(Tue)23:37



今年は手塚先生のデビュー70周年なんだよな〜と考えていたら、初期の輝かしき子役スタアたちを思いつくままに描いていました。
(ヒゲオヤジ先生とランプさんは保護者枠)
(サッちゃんも描きたくて最後まで悩んだけど厳密にはスタシス子役ではないので今回は略)

青年向け作品にももちろん傑作が多かったり、大人になって改めて読んで感じることなども多々ありますが、やはり手塚マンガの凄まじさというか恐ろしさは、子供が読みたがる+まねっこして描きたがる形の中に、あれだけの情報量を詰め込んでいることだよなあ…とつくづく思うのです。
そして随所に仕掛けられているトラップの数々。道を踏み外す伏線を張られた子供たちの数々。

罪作りな先生に、子供のときから尽きない感謝と愛と敬意を込めて。
君おもう、ゆえに我あり―『アトム ザ・ビギニング』2巻感想
テヅカごと  2015/12/31(Thu)02:07

ジェッターマルスの年だった2015年も終わりに近づき、カサハラテツロー先生描く『鉄腕アトム』前史物語『アトム ザ・ビギニング』も“マルス”の表紙を引っさげ、いよいよ2巻へ突入。

ややもすれば抽象的になりがちな「ロボットの自我とは何か」というテーマが今回も丁寧に分かりやすく、また要所要所で、ぞくっとするような描写を交えながら、徐々に深化して語られていく様がドキドキしてたまりません。

しかもそれが、A106とマルスらロボットそれぞれのギミックを尽くしたバトル描写など、きちんとエンターテイメントした少年マンガ的展開の中で語られていて、そこが最高に熱い。

「これは、ぼくが生まれるまでの物語」というキャッチコピーと原作『鉄腕アトム』の絵が添えられた単行本オビにふさわしい作品だなあと、今巻もしみじみと味わいながら読んだ2巻です。

 +

1巻に引き続いてのロボットレスリング決勝も、いよいよ終盤。

ライバルロボット・マルスとの激しい闘いの中で、A106のロボットとしての自我が、そのあらわし方が、少しずつくっきりと立ち現われてきます。

(※以下、1巻感想でネタバレとして書いた話と重複するところもあり)

また『アトム ザ・ビギニング』が面白いのは、たとえ激しいバトルの中であっても、A106のそんな“自我”のあらわれが、喜怒哀楽の感情や自由意志なるものとしてではなく、“言葉”による情報伝達をしたい、という欲へと集約されていくところなのでして。

「なぜ?」「応えてほしい」「話をさせてくれ」とマルスに必死で短距離信号を送るA106。
先に負けて壊されていたロボット・ドラムショルダーに見た電子頭脳の反応を「生きている」と表現し、それが発する信号に対して「ボクの声が聞こえるのかい!?」と必死で語りかけるA106。

それは、人間に“言葉”としては聞かれないとしても、ロボットの彼が自分と同じロボットに通じる共通言語だと信じて向ける“言葉”そのものなのです。

しかし、かまわず攻撃してくるマルスに、その“言葉”は届かずひたすら無視される。
わずかな希望を見出すように語りかけたドラムショルダーの電子頭脳もまた「短距離通信を検知」「通信エラー」「信号の内容は不明」というただのプログラム反応でしかないエラーコードを返すのみで、そこにはA106が切望する同じ自我を持つロボットの“言葉”は存在しない。

ドラムショルダーの電子頭脳を抱えたまま「ああ……」と絶望したA106は、やがてマルスに追い詰められ半分破壊された末につぶやきます。
「ボクは……ひとりぼっちのまま壊れてしまうんだな」と。

ボクが守りますと誓ったラン、その命令を忠実に実行してきた主人の天馬やお茶の水の姿を客席に見ながら、その声を聞きながら、それでもやはり自分は「ひとりぼっち」なのだと。

1巻感想でも触れたカサハラ先生インタビューの言葉
自我の本質って、「他者と自己との境界線を持っていること」なのではないか、と。
(中略)
自他の区別が明確になることで、初めて他者を思いやる心が生まれてきます。一方で、自我をもった瞬間から、孤独も生まれてきます。似た存在を求めたり、対話を試みようとしたりするのも、そういうところから生まれてくるんじゃないでしょうか。

この言葉のとおり、A106が他者から境界線を引いた自己というものをはっきり意識したからこそ、この意識した自己がロボットである(=ランや天馬やお茶の水と同じ人間という自己をもっていない)事実を認識し、また一方で、短距離信号という“言葉”を共有する(=同じロボットという自己をもつ)仲間を、応えを返してくれる存在を強く求めた結果の反動として、「ひとりぼっち」の自己を思い知ってしまう、この切なさ。
まるで『火の鳥未来編』で、知能なんてものを持たなければこんな苦しみを感じなかったのにと嘆いたナメクジのような。


でも、それは、天馬とお茶の水が「魂のない機械に真の意味での自律をもたらす唯一の手段」と豪語するロボットの“自我”が形成されていく過程の、いわば成長痛のようなもので。


マルスとの死闘を終えて修理されているあいだ、リセットされたメモリを自己修復しながら、自分が2体いる「非論理的」な状況をバグとして見てしまうA106の白昼夢という、2巻でも特に印象的でぞくっとする画は、そんな自分の中に明確に現れてきた自我を見つめ、なぞり、受け入れていく戸惑いのようであり。

その戸惑いの延長のごとく、無人島編でランを傷つけたマルス型量産機たちに対する破壊を止められない「ボクが……ボクじゃないみたいだ」という衝動は、「これは気持ちなんかじゃない」「だって ボクの自我システムはできそこないだから」とA106自身がつぶやきながらも、そこにはやはりA106が「ひとりぼっち」を自覚した次のステップが見えるようであり。


ランたち人間や動物とは明らかに違う自己、意思疎通のために用いる音声という手段とは全く異なる“言葉”、そして感情表現。
明確にくっきりと境界線が引かれた自己と他者。ロボットと人間。

それでも、例えばA106の絶望を「“ひとりぼっち”だと?くだらなすぎて話にならん」と一蹴しながら主人Dr.ロロの命令に逆らって勝利をゆずってやったマルスも、例えば無人島編で最強の戦闘型機として華麗に登場しながら主人ブレムナー博士の命令を一時無視してまでA106とお互いの意思を交感するように手を差し出したノースも、たしかにA106と同じく自我をもつロボットたちがこの世にいることを、「ひとりぼっち」のA106にそっと教えているのです。

「ひとりぼっち」と自覚する自律した自己をもつからこそ、その境界線の外に存在するもう片方の「ひとりぼっち」たるロボットや人間と意思を通わせ、感情を向け、そのために動くことができる。命令ではなく自ら選ぶそこにあるのは、決して「できそこない」ではない自我。


少しずつ立ち現われていくA106の自我のゆらぎと、そこに気づいているようで気づいていない天馬お茶の水とのズレがやがて起こすだろう決定的な何かへの予感の危うさ。
それでもやはり、ランがA106のために流した涙と、ランが流した血のためにA106が抱いた怒りのような「気持ち」とのあいだには、ぎゅっと胸をつかまれる暖かな優しさを感じずにはいられないですし、みずから機能停止したマルスの肩にそっと手を置くA106の無言の表情には愛おしさを、ノースが伸ばした手を握り「キミにはボクの声が届くんだね…」とつぶやく背中にはこみ上げるような喜びを共感せずにはいられないのです。

それは、子供のときに原作アトムと一緒に泣いて喜び怒り胸を熱くした気持ちと全く同じで。

カサハラ先生のディテールをしっかり描き込んでいるアナログ描線は、機械のフォルムやパーツひとつひとつの仕組みをしっかり感じさせると同時に、体温や色気もあって、無機物のはずの機械が「生きている」ワクワク感や儚さがあるところが、ものすごく手塚マンガ的なので、そこが余計にロボットの自我を描く物語として、こんなにも胸を突かれるんだろうなあ。

作中のロボットレスリングの観客たちが、最初はロボットのぶっこわし合いを娯楽として見ていたはずなのに、A106の「心やさしき」闘いぶりにやがて感情移入していき、ついには半壊したA106に「見てられない」と涙を流し始めるのは、そのまま読者の視線に重なっているのでしょうね。


心やさしき一千馬力の小さな巨人A106。
この子がこれから辿るだろう道が、あの心やさしい10万馬力の少年へどうつながっていくのか。丁寧に紡がれているこの物語を、手塚オタクとしても、ロボットもの大好きオタクとしても、来年もまた引き続き見守っていきたい所存です。
もちろん、才気ばしった青さと未だ世に出られぬ鬱屈と後の冷徹さの片鱗とがいい塩梅にないまぜで、2巻ではお茶の水に「前のめりすぎ」とツッコまれるほど青春ハートまっただなかで突っ走っている天馬くんの赤面も、引き続き愛しく見守っていきたい所存です。
かわいすぎだろ!


 +


さて、『アトム ザ・ビギニング』1巻でもたくさん散りばめられていた手塚的小ネタですが、今回もまた芸が細かくて探すのがおもしろい。

Dr.ロロの帽子についたリボンが『リボンの騎士』サファイヤだなあというのは1巻からはっきり描かれていましたが、さらに2巻では、マイナーチェンジされたランちゃんのセーラー服の袖が、シワが大きく強調されてサファイヤの服そっくりになっています。かわいい。これ普通にコスプレとして3次元の服飾として見たい。

こうなってくると、下の記事でうだうだ悩んで書いていたDr.ロロの名前も、
Dr.ロロ → D(o)r.ロロ → どろろ
というシンプルな語呂合わせだったのかな?と。
サファイヤと同じく男装キャラつながりということで。


そうそう、服といえば、お茶の水くんのTシャツもまたすごいことになっています。

まず、2巻中表紙でヒョウタンツギのTシャツなのはまだいいとして。

無人島編で着ているTシャツに描かれた文字が「W3」とも読めるし、ひっくり返せば「MW」とも読めるデザインになっているのは、行くのが“南の島”であるというシチュエーションを考えてみると、え、いや、あかんでしょうと手塚オタクなら青ざめ助走つけてはぎとるレベル。

それ以外にも、A106修理中に着ているTシャツのデザインは世界終末時計だし、修理完了時のTシャツは太陽モチーフだから、えーと、それ原作でお茶の水博士最大の黒歴史・人工太陽球のことなのか、それともこのトゲトゲ球体はもしかして『W3』反陽子爆弾のほうかしらん。
……と、黒シャツ一辺倒の天馬が断然かわいく見えてくるラインナップです。

無人島編で判俊作くんが着ているTシャツのワンポイントがママーなのは、粋だなあ。

手塚ネタではないですが、ランちゃんのTシャツの胸に描かれた文字が「Tension」なのは、アトムと同じくAIロボット題材だった映画『チャッピー』(2015年公開)で、チャッピーの“ダディ”役になるギャング・ニンジャのパンツに「テンション」と描かれていたことと関係あるのかな?とちょっと気になる。


「岩場に囲まれていて一般の船では近づけない構造」「天然の要塞」という無人島の形は、『白いパイロット』に出てくる小島をつい連想してしまい、これはさすがに偶然かな……と思いつつも、『白いパイロット』と同じくこの無人島をヘビ型ロボが探索しているシチュエーションというだけで、少年サンデー作品好きとしては、ちょっとにまにま嬉しくなってしまうのでした。

マルスのデザインも、カサハラ先生自身が細かく解説されているし、『地上最大のロボット』全部盛りの燃え設定も既にあるので、それ以上の意味はないのしょうけれど、犬っぽい耳を持っているせいか、あのたくましく太い筋肉繊維が見える首筋のあたりを見ていると、どうしても『ホットドッグ兵団』ペロに重ねたくなっちゃうなあ。


お茶の水が、猫の名前を「F−14」だから艦上戦闘機「トム」キャットと名づけるミリオタぶりは、そういえばこの人、長じてロボット宇宙艇造る男だったわ……と思えますし、またA106を気遣っているようでいながら、「シックスに気分って概念はないよ」と彼の目の前であっけらかんと言い放っちゃうあたりは、原作の随所随所で見せるアトムへの不用意な発言(アトラス事件時の不完全発言とか)や扱い(すぐに小学生アトムを事件に呼び出す)の悪意なきうっかり傷つけの数々を思い出させます。

ヤング天馬が、A106を失敗作だ!破棄してやる!と断言したかと思えば「感情」を搭載しようと言いだしたり、闘う姿に命令どおりだわははと喜んでいるのも、これはもう、成長しないからとアトムをサーカスに売り飛ばしたかと思えば他人にとられそうになった嫉妬で連れ戻し、自分に逆らったら機能停止して執務室に転がしていた後の天馬博士の片鱗が見えるわあと涙が出てきますし、お茶の水くんと子供のようにムキになってケンカする姿には、ああこの男なら、中年になっても旧友とのつまらない賭けを忠実に守ってヌカミソ一樽食っちゃうよなあと納得いくのです。

そして何より、未来のヒゲオヤジ先生こと判俊作くんが柔術で強敵ロボットを背負投げしてくれるだけでもう、ヒゲオヤジの使いどころをわかってる…!と泣けてくるじゃないですか。


ほかにも細かいネタがいろいろありそうだなーと思いつつ、ひとまずこの辺で。


とりあえず2巻は、今年度美しさに打ち震えたロボットデザイン賞に輝くノース嬢が、デザインもバトル描写もとにかく素晴らしかったので、そのうち時間ができたら彼女を描きたい……。
これだけ大胆アレンジしていながら、しっかり手塚みを感じるデザインになっているのもまたすごいので、実際に描いてみたら、また発見がありそうだなあ。
もうすぐ2巻発売ですね
テヅカごと  2015/12/02(Wed)22:06

とワクワクしつつの今月の『アトム ザ・ビギニング』なんです が。

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(ネタバレ)
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今月大活躍の猿田の娘が、あのふわっとした黒髪の房といい、キリッとした睫毛といい、相棒のAIがウサギ型なところといい、『エジプト陰謀団』のクレオパトラを連想してしまうのは、私だけですか、そうですか。

いや、まあ、そんな個人的独断と偏見はともかくとして。
それより何より、彼女の名前が「月江」という、あの天馬星江を想起させる名前であるところに、今月は震えております。うわー。





もう一人、カギを握るとされつつ、今のところ謎の人物である女性、Dr.ロロ。
この「ロロ」という名前について、テヅカ脳で真っ先に思い浮かぶのは「ロロールル」なんですが、どうなんだろうな〜。
もし「ロロールル」なら、海野十三『火星兵団』由来(火星の女王ラーラの遺児にして地球との戦争を回避するカギとなる王子たち)の名前になるので、月江(≒星江)と同じく、天体関連つながりの名前ということになるのかしらん。


先月号で、お茶の水が着ていたTシャツがさりげなく『ビッグX』だったことといい、細かいところまでネタが散りばめられているので、ついいろいろ考察したくなる。

……と思考を遊ばせつつ、もうすぐに迫った2巻発売を待ちます!楽しみ!
ビニール生まれのおんなのこ
テヅカごと  2015/11/02(Mon)23:38

NHK-FMのラジオドラマ『やけっぱちのマリア』が9月に再放送でした。

青春アドベンチャー『やけっぱちのマリア』(全10回)
http://www.nhk.or.jp/audio/html_se/se2015017.html

思えば3年前の本放送のとき。
え、まさか、これを天下の公共放送さまで、しかも青少年向け枠で堂々とラジオドラマ化しちゃうんですか!?とのけぞり、いざ聞いてみればその脚色の巧さにすっかりやられて泣いてしまったんですが、今回録音コンプリートもかねて久々に聞いてみましたら、改めて、やはり公式メディア化として傑作だなあとつくづく。ええ、今回も最終回で見事に涙ぐみました、本気泣きしましたとも。

そもそも、『やけっぱちのマリア』原作は。
中1の思春期まっただ中の少年が、亡くなった母への思慕からエクトプラズムを“妊娠”してしまい、それが乗り移ったラブドールとてんやわんやのラブコメディを繰り広げる……という設定からして、まず相当に狂っていておかしい(褒めています)ですし、また全体的にも70年代前半の手塚マンガに特徴的なはちゃめちゃ(先生ご本人も「やけっぱち」とおっしゃっている)ナンセンスギャグが前面に強く出ている作品でもあります。
……が、一方で、本テーマ「男女の性」にかかわる部分は、“医学博士号を持つマンガ家”としてのプライドを感じさせるような丁寧さで、まるで学習まんがのよう。
男女の行為について「おとうさんはおかあさんの許しを受けて」からと断って書いているあたりなんて、もう、すべての青少年に教育の一環として読ませたいわ。

倒錯的なのか大真面目なのかまったく分からない、そんな奇作とさえ言える原作から、このラジオドラマは、おかしな設定、おかしな筋立て、おかしなドタバタの影にひっそりと、しかし実は色濃く仕込まれていたヤケッパチとマリアの純愛を誠実に掬いあげ、切ないラブストーリーとして昇華してくれていたのでした。


考えてみれば、男でありながらマリアという子供を産んでしまうヤケッパチは、天馬博士から続く「造物主」としての父の系譜に連なる子ですし。
また、形を持たず産まれたその子が人工で造られたかりそめの体を与えられることで、幼いころに欠損した“家族”を擬似的に埋め合わせるというマリアの役回りは、やがて同じチャンピオン誌上で連載されることになる『B・J』ピノコの原型でもある。

造られた存在が、生きて恋を知って感情をはぐくんでいく過程のはかない歓び。
少年が、初恋という通過儀礼を経ることで得ること失うことを知っていく過程の痛み。

片方だけならばむしろ王道ですらある、この2本の成長物語を重ねあわせて語ることで、父子であり、分身であり、初恋の相手同士でもある、幾重にも絡みあったこのヤケッパチとマリアの複雑怪奇な関係は、ふざけているようでいつつ、実は、手塚マンガワールドの初期から後期まで連綿と続く「異形」をめぐる愛憎劇の文脈の中に、しっかりと組み込まれているのです。

そんなことを浮かび上がらせてくれた点で、本当に素敵な脚色でした。良作。


 +


というわけで、脚色や声優さんたちの演技がすばらしかったのは勿論なのですが。

今回、改めて聞いてみて、『やけっぱちのマリア』がなぜラジオドラマとして脚色したのか、いや、むしろラジオドラマだからこそ、これだけの良作になったのかなと思わされて、面白いなーと感じた点が1つ。


マリアの体はダッチワイフ=ラブドール、つまりビニール製の人形という設定ですが、そのことを今回のラジオドラマでは音で表現している、つまりマリアがしゃべったり動いたりするたびに「ポヨッ モキュッ」と何とも可愛らしい効果音をつけています。

手塚マンガで効果音といえば白黒版アニメのアトムの足音ですが、しかし、あの音はアトムという個の表現というよりは、むしろ作品そのもの全体に何となく「未来」という雰囲気と効果を加えていました。
それに対し、今回このマリアにつけられた効果音は、かわいらしくデフォルメされているものの、いかにも「ビニール」を連想させる音であり、明らかにマリアという個にひも付けられている音。

マリアがラブドールに宿り、動き出し、ヤケッパチや父ちゃんと丁々発止のやりとりをし、タテヨコの会を相手に大暴れしていくたびに「ポヨッ モキュッ」と重ねられていく音。
それは漫符のようなかわいらしさでこのコメディを彩っていく伴奏のようでありつつ、実は、この笑ったり怒ったり恋をしたり忙しい少女が「ビニール製」であるという事実を淡々と、しかし確実に聴いている者の中にじわじわ積み重ねていきます。

そして、マリアがヤケッパチに別れを告げるあのラスト。

原作では、人間のヤケッパチと人形のマリアの恋が「ままごと」でしかないこと、その終わりをヤケッパチもマリアもどこか予感しつつあったことを、深層心理からの共鳴作用というエピソードでやや理屈っぽく語っていましたが。

ラジオドラマでは、この「ビニール」の効果音がラストまでに積み重ねられてきたことで、背中がやぶれ、からっぽの中身がさらけ出され、「人形」であることを認めざるを得なくなるマリアとヤケッパチの哀しみと、それを受け入れていく覚悟が、二人の震える声と息だけで、立ち上がってきます。

ビジュアルのないラジオドラマだからこそ物語上の“記号”として機能し受容されてきた効果音によって、いつの間にか張られていた伏線が、回収され、にわかに現前化する。


だからこそ、別れのときにマリアが震えて泣きながら言う
「私は人形なんです、壊れてしまいました、ボロボロのベロベロのズタズタです」
という言葉の意味が切実な重さを伴って、一気に押し寄せてくるのです。


よく考えると、そもそも手塚マンガ原作では、マリアのビニール製の体と、ヤケッパチ(とその他大勢)の人間の肉体とは、図像レベルでの差異は実はそれほどはっきりとは区別がつけられていないんですよね。
自由自在に伸び縮みし、破れ、へにゃりと横たわるマリアの体は、たしかにビニール製であることを描写してはいますが、ヤケッパチやほかの人間たちもまた、自由自在にデフォルメされていく、いわゆる「マンガチック」な動きで描かれている以上、マリアの体のみが持つはずの特殊性とそれゆえの切なさ哀しさを担保するのは、絵単体よりもむしろ、物語の文脈そのもののほうで。


その意味で、絵がないからこそマリアを現す“記号”としてあの効果音を付けることができたラジオドラマは、実は視覚を伴う形でのメディア化よりも、マリアというキャラクターと『やけっぱちのマリア』という物語を再構築する上で非常に有効かつ最良の手段だったのではないかと思いますし、また手塚マンガをラジオドラマという媒体に移してみるに当たっても、『やけっぱちのマリア』という作品こそがこの媒体に格好かつ最良の題材だったのではないかと。

舞台版『PLUTO』で、これまた原作マンガ(手塚版と浦沢版双方)においては描線レベルでの差異がほとんどなかったヒトとロボットとを生身の人間に演じさせるに当たり、マニピュレイターという舞台ならではの演出によって歴然と区別づけることによって、原作の「ヒトとロボットの共生か対立か」という切実な命題を3次元に立ち上がらせていたように。


“記号”性を帯びた身体と、それゆえに成立し得る物語。


表現論としても一ファンとしてもずぶずぶと考えが止まらなくなる、手塚マンガのそんな側面を、その媒体ならではの表現によって抽出し、浮かび上がらせ、再構築するという点で、今回のラジオドラマの効果音もまた一つ、新たな形を魅せてくれたのでした。
『アトム ザ・ビギニング』1巻買ったよー。
テヅカごと  2015/06/13(Sat)22:20

というわけで、とりあえず嬉しさの楽描き。



今のところ、自称「天才」二人がゴキゲンだったり励まし合ったりするときにやっている鼻つまみ合いですが、そのうち今月号みたいにお互いヒートアップしてケンカしているときにも、同じくやってくれたら楽しそうですよね。
だって、ほら、この一方は、みずからの鼻を武器にして相手をたたきのめす、意外と武闘派でもある原作お茶の水博士の若き日なわけですから。

 +

横の一言日記でもよくつぶやいていましたように、毎月ヒーローズを買って読んでいます『アトム ザ・ビギニング』。
雑誌を追っかけて、切り抜きがクタクタになるまで読み返ししながら、それでもなお、こうして単行本として1冊になったとき、さらに思いが深まるマンガをリアルタイムで読めているのは、本当に幸せなことだな……とまずしみじみ。


第1話の感想記事のときには、天馬とお茶の水というアトムを挟んで対照的な二人をあえて同学年設定にした意義について熱く考えましたが、あれから今回の単行本発売までのあいだに、手塚プロ公式サイトで5月にあったカサハラ先生のインタビューを併せて読み返してみると、また違った印象も浮かんできました。

※こちらの記事→http://tezukaosamu.net/jp/mushi/201505/special1.html

ここで、天馬博士よりも実はお茶の水のほうが科学者としてマッドではないかと断言しているカサハラ先生がすてきです。まさに目からうろこ。

これまで、天馬のわかりやすい天才性の狂気との対比を通してばかりお茶の水を見ていたのですが、このカサハラ先生の言葉を読んで、ああなるほど、確かに一見“善良”であり良識もあるように見え、そこをアトムという子供が信頼して懐いているからこそ、そしてお茶の水本人もまたそんな自分の属性に微塵も疑いを抱いていないからこそ、実はお茶の水のほうが恐ろしいのかもしれないわと、はっと考えさせられ。

それを踏まえつつ1巻で第1話を読み返してみますと、若きお茶の水ヒロシくんが、天馬と共同開発したロボット・A106の人工知能に見えた“自我”の芽生え、その自発的・自律的な行動(しかも人助け!)に感激して「僕らのシックス…」と涙ぐむ台詞にも、明るい感動や無邪気さと表裏一体の危うさが見えて、ちょっとぞくっとしました。

 +

ところで、アトムをはじめ手塚マンガでは、ロボットに“自我”もしくは“心”があるのは当たり前、といいますか、むしろ、そこ前提の上での葛藤=ドラマを描くことこそが本題になっている場合が多いので、ロボットがそれを持つに至るまでの過程あれこれは、すっ飛ばされがちです。

なので、私がアトムの公式二次創作で毎回楽しみなのは、そんな「ロボットのプログラムに“心”が芽生えるに至るまで」に果たしてどんな理屈付けをしていってくれるのか、作家さんによっていろいろなルートが観られるところ。

で、今回の『アトム ザ・ビギニング』が面白いのは、上述のカサハラ先生のインタビューでも詳しく語られていますが、“自我”の始まりは、自分の意思で行動することでも、また感情でさえもなく、「他者と自己との境界線を持っていること」と定義づけているところなのです。


謎のロボットに襲われたお茶の水の妹(オリジナルキャラのむっつり眼鏡っこで、この子がまたすばらしくカワイイ)を背中にかばって戦いながら毅然と言う「ランさんはボクが守ります」という男前な台詞。
ロボットレスリングに出場し、無敗の王者マルスと対峙しながら心の中でひとりつぶやく「ボクは戦う… ボクを作ってくれた天馬様とお茶の水さんのために…」という台詞。

しかし、A106の“自我”を指し示すのは、実はこれらの決意と意思に満ちあふれた台詞ではなく、同じロボットのマルスに向けて語りかける「ボクはキミと…話がしたい」のほうではないかと思われます。


天馬が大学院の研究報告会で、「プログラムの量をひたすら増やすことによって自律しているように見せる」とほかの研究室をこきおろして言う、人間の模倣としてプログラムされた“自我”ではなく。
人に作られたモノとして、それに従い、また守るためにみずから考えて(ときには身を挺してまで)動いてみせる、人間の活動の付随物としての“自我”でもなく。

マルスに、同じロボットとして、同じロボットだからこそ「話がしたい」と語りかけるA106の言葉は、それまでの「守ります」「戦う」からさらに一歩踏み込んだ、ロボットとしての欲求を初めて言葉にしてみせた、ロボットとしての“自我”を彼が明確にあらわした瞬間なのです。

ここを1巻の最高潮、またヒキに持ってくるという構成がね……!
すばらしく熱いし、泣けますね……!!!


※↓ここからちょっと2巻収録予定部分(6・7話)ネタバレあり

このA106の“自我”の発露が、「言葉」による情報伝達というものに集約されていくのもまた『アトム ザ・ビギニング』のすばらしく面白いところでして。

マルスとの闘いの最中、「答えてほしい」「話をさせてくれ」とA106は何度もマルスに向けて短距離信号を発し続けます。人間には聞こえないそれは、ロボットの彼が同じロボットに通じる共通言語だと信じて向ける「言葉」そのもの。

それをマルスに無視され続けたまま、先にマルスに壊されていたロボット・ドラムショルダーの電子頭脳にもA106が「まだ生きている」と語りかけたとき、ドラムショルダーの電子頭脳もまたA106の信号を受信して反応するのです。
初めてロボット同士で「言葉」が通じたのかと驚き、「ボクの声が聞こえるのかい!?」と必死で語りかけるA106。
しかし、ドラムショルダーの電子頭脳が返すのは、「短距離通信を検知」「通信エラー」「信号の内容は不明」というエラーコードのみ。
それはただのプログラム反応であって、A106が「話がしたい」とこい願う、同じロボットの“自我”ではない。
ドラムショルダーの電子頭脳を抱えたまま「ああ……」と絶望するA106。

そして、無言のマルスに追い詰められ半分破壊されたA106は、天馬やお茶の水やランに「さようなら」と別れを告げつつ、「ボクは……ひとりぼっちのまま壊れてしまうんだな」と呟くのです。

守るべきラン、その命令を忠実に実行する主人である天馬やお茶の水の姿を見ながら、その声を聞きながらも、しかし、自分は「ひとりぼっち」なのだと。

そこにあるのは、自己と他者を分け、自己の本質=ロボット(=ランや天馬やお茶の水と同じ人間ではない)という事実を認識し、だからこそ短距離信号という自分の「言葉」を共有し得る仲間を強く求め、誰かボクの「言葉」に答えを返してくれと叫び続ける、ロボットとしての“自我”。


ロボレス編が終わった今月号で、そんなA106の短距離信号と、それに最後に答えたマルスの返信との記録を調べたお茶の水は「まるで独り言でもつぶやいてるみたい」「シックスの語りかけに何かが応えたみたいだ!」と表現します。そこに、プログラムでもエラー反応でもない“自我”を持った者同士の会話を見出したかのように。

そして、A106もまた、最後の最後にようやくマルスに「くだらなすぎて話にならん」と言葉を返された彼との会話を反芻しながら、自分と人間、動物との意思疎通・感情表現方法―「言葉」の違いを自問自答し続けているのです。

まるで、自己と他者の境界、ロボットと人間の境界がさらに明確になっていくことで立ち現れていく“自我”の輪郭線を強く太くなぞるかのように。

だからこそ認識できる他者=A106を思いやりつつ目の前のことに研究者として夢中になる視野狭窄も持ち合わせたお茶の水、壊れた自分を治そうと奮闘し、治ったら大粒の涙を流すラン、こいつは失敗作だ廃棄しろと言いつつ結局修理する天馬、そして研究室の飼い猫F14にまで対して、確かに“感情”と呼べる意思を向けながら。


そこには、自分はロボットなのか人間なのかとぐらぐら思い悩む「トビオ」時代から、やがて「アトム」という名のロボットとして“自我”を確立していく道が明確に描かれていた『アトム今昔物語』アトムの姿が、私には確実に透けて見え、胸をぎゅっとつかまれてやまないのです。

※↑ネタバレここまで


 +

それにしても、カサハラ先生の描かれるメカ描線は本当にすばらしいな〜。
まるっこく、どこかとぼけた愛嬌がありながら、しっかりと各パーツが描き込まれていて、一つ一つの形、接合部にまで理論だったものが見えて、フォルムからアクションシーンでの動きから全てにドキドキワクワクする。
単行本巻末のオマケで、A106は「シャルル・アンリの美学理論」というのに沿い、正中線に対して上向きの線=上昇線(陽気・明るさ等ポジティブな感情を現す)を意識してデザインしたというコメントがあって、感激しました。

ちなみに、天馬とお茶の水のキャラデザは、
こちらのインタビュー→http://natalie.mu/comic/pp/atomthebeginning/page/2
によると、コンセプトワークスのゆうきまさみ先生なんだそうで。
第1話感想のときにも書きましたが、ヤング天馬のデザインが、手塚マンガの睫毛キャラ系譜をほのめかすような顔つきなのがすごくイイんですよね……。
手塚マンガの睫毛キャラ系譜といえば、アラバスターロックとか、ダイバダッタとか、美知夫とか、とかとか、つまり自分の優秀さを自負し天才として派手に振る舞いつつ、どこか詰めが甘くて結局失敗しちゃってそっと涙を吹かずに入られない、残念イケメンくんの系譜ですよ!
というわけで、この天馬がこれからどんな顔を見せてくれるのか、かなり楽しみです。(で、やっぱり『上を下へのジレッタ』門前も入っている気がしてしょうがない)


そういえば、第1話でコロッケパンをお茶の水と天馬がうまいうまいと食べていたのは、「実家は馬鈴薯農家」という原作天馬の設定からの小ネタなのかな。
とか。
謎の美女博士Dr.ロロの帽子のリボンが『リボンの騎士』模様ということは、やはり彼女は……ということなのかしら。
とか。
お茶の水・天馬が大学院生で、探偵志望の青年伴俊作くんがオヤジに「塾に行け」と言われているということは高校生ぐらい、つまり丙午年(=1966年)生まれで2003年アトム誕生時に37歳だったはずの原作天馬と、『ホットドッグ兵団』アトム在学時点で42歳だった原作ヒゲオヤジと、同じぐらいの歳の差にちゃんと設定されているんですね。
とか。

研究室の猫=アトムキャットなど分かりやすい大ネタ以外にも、細かい手塚ネタがいろいろ散りばめられていて、こういうところも本当に楽しい。


この絵で、このストーリーコンセプトで、この設定で、これからどんなふうに新しい形の「アトムの物語」を見せてくれるのか、どこまで突き抜けていってくださるのか、来月以降もワクワクと読んでいきます。
アトム12歳
テヅカごと  2015/04/07(Tue)23:18

というわけで『アトム大使』から順番に読み返しながら、あーやっぱりこのころのアトムのかわいらしさは至高だわーと悶つつ、ざかざか楽描き。楽しい。



初期のちょっとツリ目ぎみで、ツノが小さくて、赤いブーツを脱いだ素足がよく見える時期のアトムのデザイン的な素晴らしさったらないですね!


右の一言日記でもぽちぽちつぶやいているように、元旦に観に行った『ベイマックス』に心奪われて、すっかり沼にハマっているんですが、手塚先生がディズニーまねっこしてたという四本指スタイルのころの初期アトムが本当に好きで、自分で描くときもそこをベースに描いていたので、ベイマックスというロボットが四本指デザインなことに途方もないトキメキと喜びを感じています……幸せ。
2月9日
テヅカごと  2015/02/09(Mon)23:46

今年もこの日が巡ってくる。



お前の意思は何色だ ― 舞台『PLUTO』感想
テヅカごと  2015/02/02(Mon)00:42

http://www.pluto-stage.jp/
舞台版『PLUTO』観劇してきました。

とても良かった。まだ咀嚼しきれていない部分も多いけど、そこがまた幸せ。

連載当時、毎号ビッグコミックを買ってリアルタイムで追っかけていた原作『PLUTO』。
手塚マンガ絵を現代マンガ絵へ置換するとこうなるのか、あの筋を現代文脈に持ってくるとこう膨らむのか…と毎回見せてくれるアレンジひとつひとつが、驚き、かつ楽しみで。
今回の舞台化は、そんな原作アトムから原作PLUTOへの置換作業をさらにもう一度、今度はマンガという原作を舞台へと移す再置換が行われたものですが、一度目の置換―『PLUTO』連載時と同じワクワク感を再び味わうことができた、2次元を3次元へ置き換える手順がとても丁寧に、そして大胆に積み上げられていた舞台でした。


演出家ラルビ氏の前作『TeZukA』は、TV放映にて鑑賞。
こちらは「原作どおりでない」という事前説明のとおり、明確なあらすじのない身体表現を駆使したコンテンポラリーダンスの舞台で、だからこそ、ミクロとマクロを自在に行き来して読者の頭脳を揺さぶってくる視線や、マンガ表現そのものなど、手塚マンガの観念的で形にしにくい部分が純粋に抽出されて、それらコラージュされた膨大なイメージが生のままダイレクトにぶつけられるような感覚に襲われるふしぎな舞台でした。

ただ、そんな現代ダンス表現芸術にあまり馴染みがなく今まで来た身としては、繰り出される表現手法そのものについていくだけでも精一杯で、「そうか、公式二次としてこういう解体+再構築のやり方もありなんだ、なるほどー」と、ただただ、へーほーと感動するところで終わってしまっていたのも、正直なところ。

しかし今回は、その表現手法が、原作全8巻分の物語を語るため、文字通り“手段”として用いられていたので、『TeZukA』に見た高揚感を通じて、『PLUTO』、そしてそこに内包されている『アトム』の物語を存分に、また自由に受け取ることができて、本当によかったなあと。


 +

客席に着いたところで、まず目に飛び込んできたのが、舞台を天井から覆う真っ白な巨大スクリーンと、それを分割するように走っている柱のような縦横の枠線。
それは、まるでマンガ原稿用紙の上のコマ割りのようであり、さらにコマの数が7つ=地上最大のロボットたちの人数と同じであることにハッと気づくと、その予想どおり、分割された“コマ”の1つ1つに原作『PLUTO』アトムら7人のロボットたちの顔がが映しだされたところから開幕し、あとはもう、あれよあれよと2次元と3次元の境目に分け入っていくような感覚でした。

天馬博士とトビオ時代アトムの淡々と壊れていく父子の夕食風景が、スクリーンの区切られた一コマの内側で、まるで頑なに閉ざされた思い出でもあるかのように演じられたかと思えば。
そのコマ割りを無視して踏み潰すがごとく、スクリーンの前で、ゲジヒトのあの日の記憶、ペルシア王国への空爆とアブラーの悲劇が繰り広げられる。

アトムやゲジヒトたち主要人物たちの背景で空間を3次元に区切るボックスは、それぞれがコマ割りされたコマのように独立した風景を並行して物語っていくかと思えば。
アブラーとゲジヒトが会談するペルシア共和国マーケットの場面では、そのコマとコマの間を一人のモブ兵士ロボットが行き来することで緩やかにつないでみせ、まるで手塚マンガの群衆モブシーンのようなざわりとした感覚を見せつける。

白をベースカラーとした舞台セット上、原作『PLUTO』の絵そのものや、まるでマンガの効果線やトーンのような映像が、彼ら彼女らが語る思い出、受信する情報、覗きこむ記憶の視覚的表象として次々と映し出されていくプロジェクションマッピング。
それらによって、原作のあの長編ストーリーがさくさくと手際よく刈り込まれながら進んでいくとともに、初めは無機的であったそれらデジタル映像に、だんだんと有機的なものを感じていくようになるふしぎ。

最初に現れた巨大な7コマと同じ形をした白い台形のボックスたちが、舞台上、ダンサーの手によって滑るように運ばれ、そのたび家具、階段、壁、意識の描出、墓石へと姿を変容させていく見事な様は、そのまま手塚マンガ的メタモルフォーゼの美しい再現のようであり、人間とロボットが共存するあの世界のあいまいな境界線の象徴のようでもあり、うっとりしました。

 +

そんな『アトム』そして『PLUTO』世界観の描出であり、また舞台だからこその表現として特に面白かったのが、マニピュレイターという存在。

ロボットを演じる役者さんには、それぞれ3人の黒子ならぬ白い服に身を包んだダンサーさんたちが影のように付き、マニピュレイター=操作者として、まるで役者を糸繰りで操っているかのような、はたまたその動作をなぞっているかのような動きで、ぴったりと寄り添い続けるのです。

この表現が、何重もの意味を帯びていて、面白かった!

マニピュレイター役ダンサーのシステマチックな動きが、中心にいる役者個人のささいな動作、手足の向かう先、わずかな視線の行方を一回りも二回りも大きく補強して描出するので、たとえばアトムが道端にカタツムリを見つけるような繊細な動作でも、アトムがふと見つめる先へと観客の注意をうまく誘導してくれる、そんな舞台演出としての面白さももちろん機能していたんですが、それだけではなく。

『鉄腕アトム』の柔らかな線、『PLUTO』のリアルタッチ描線、マンガ表現は違えども、原作マンガではどちらも“絵”のレベルでは判別しにくくなっていた、人型ロボットと人間の区別。
それが、このマニピュレイター演出によって、生身の人間が双方を演じている舞台の上では逆にやんわりと区別が強調されていき、だからこそ、「人間とロボットの共生と対立」というフィクションに土台を置く切実な命題が、人間の役者さんたちの身体から浮いてしまうことなく、自然にすっと入ってきたのでした。

そうやって、前半で人間の役者さんを通してこの演出になじませてくれていたおかげで、中盤から登場するブラウ、ペルシアのアリ、アーノルド、そしてプルートゥといった、いかにもロボット的なロボットを“演じる”人形たちも、まるで文楽のように影役のダンサーに操作棒つきで操られていようとも全く違和感なく、舞台上に生きていると感じられたのです。ここの流れが、あの世界の3次元化として本当にうまかったなあ!と。
特にアリは、ぎこちなくもいじましい動きが、かわいらしくて哀しかった。
アリの“生きている”感があってこその、ゲジヒトとの最期の重み。


そうして見ていくうちに、初めはロボットを操っているように見えていたマニピュレイターの動きが、実はロボットの電子頭脳が自らを動かそうとする意思の表出でもあることに気づくのです。

すぐれた性能を持てば持つほど、スカンクの「完全なものは悪いもの」という嘲笑いやラム博士の復讐、デッドクロスの権力欲と同属嫌悪など人間の思惑に翻弄させられ、その欲望がまたさらにすぐれたロボットを産み出していく本家『鉄腕アトム』の皮肉な悲喜劇。

その終着点であるかのように『青騎士の巻』でロボットに自然にめばえた「人間をにくむ心」と、そこに見た進化に魅せられたのか『アトム復活』編で天馬博士が“息子”アトムに望み押しつける「りこうなロボットがバカな人間を支配する世界」という夢想。

そんな本家のエッセンスを、ロボットの電子頭脳にエレガントで革新的な進化を与えるのは“憎しみ”であるという天馬とアブラーの思想に集約させ、第39次中央アジア紛争を軸とする復讐の連鎖に巻き込まれるロボットたちの物語に昇華した『PLUTO』。

しかし、『PLUTO』ラストで、アトムとプルートゥが自ら涙を流して不毛な連鎖から脱したとき、天馬やアブラーの思惑を軽く超えた“心”を既に勝ち得ていたように。
『鉄腕アトム』のロボットたちが、人間キャラ以上の親しみとおかしみと生命感、そしてある種の理想すら体現した描線でいきいきと描かれていたように。

舞台上に見えるあの白い腕もまた、操られるもの=人間に振り回されるものとしてロボットを縛りつける糸ではなく、自らの意思で手を伸ばし歩を進め眼を開くロボットの心の揺らぎそのものに見えてくるのです。


終盤、アトムがプルートゥとの最後の戦いに向かう前、ヘレナに会いに来る場面。
ここで、ヘレナがアトムの嘘に気づいたことを独りつぶやくとき、彼女は自分の後ろにいるマニピュレイターたちをふと見やります。
この最後に訪れるメタ的な仕掛けが、やさしい嘘をついたアトムも、全て分かって受け入れたヘレナも、それはお互いのロボットとしての“心”が自らに行わせたことを印象づけ、この前の場面で天馬博士がヘレナに泣くよう促す「真似でもそのうち本物になる」、そしてブラウがアトムに触れて言う「これが心…」を、この物語の結末を形づくるピースとしてなお一層際立たせてくれるのです。

そして、白い服を着たアトムやウランたちのマニピュレイターたちであれ、引きずるような土気色の衣装をまとったブラウのマニピュレイターたちであれ、それがロボットたちの心であり自意識のあらわれであることに気づくとき。
自分は「神の領域にいる」とうそぶきながら、実は動くこともできずマニピュレイターがついていないDr.ルーズベルトの不気味な滑稽さがにわかに浮かび上がります。

ラスト、真っ白なコマ枠の前面で、中央の椅子にただ座っているだけのDr.ルーズベルトに、アトムの“心”を知ったブラウの腕がマニピュレイターとともに伸びていき、槍を振り上げ首を落とすシーンは、この演出が行き着く先として最高の図でした。


形を組み替え映像を投影され、次々とその意味を変容させていく7つのボックス。
揺らぎながらも確固としてそこにある“意思”を印象づけるマニピュレイター。

それらは、『鉄腕アトム』で明確な言葉はなくともアトムたちの哀しみ喜び愛おしさを通じて描かれ続け、そして『PLUTO』にも受け継がれていた、「ロボットの心とは」という原作の観念的な部分を、一つの具象として確かに目の前に示してくれていました。

アトムの白色も、ブラウの土気色も、同等の魂として。


 +


それにしても、森山未來のアトムはすばらしかったー!
パンフレットでは、ただ少年っぽい声の出し方や振る舞いでは「アトム」を表面的になぞるだけで終わる、内面からアトムに近づかないと…と語っていましたけど、舞台の上ではちゃんと“少年”になっていたんですよね。ちょっと前に『夫婦善哉』柳吉を演った人と同一人物とは思えなかった。役者おそろしい。
自分が持つ“心”の可能性に怯えつつもそれを真摯に抱きしめる子供のナイーブさと、10万馬力の体とのアンバランスさ、その危うさを自ら知っている聡さと、ときたま人をからかったりお兄ちゃんぶったりする歳相応の少年っぽさが、まさに『PLUTO』アトムであり、『鉄腕アトム』で私が最も愛するアトムの一面も透けて見え。
あれはまさしくアトムでした。舞台の上にアトムがいました。涙が出る。

マニピュレイター演出も、一番しっくり来ていたのは森山アトムだったかも。
特に、劇中2回あるカタツムリを手に取る場面の静かな情感、恐ろしい身体能力でロボットの心の荒ぶりを表現するダンスシーンはすごかったの一言です。

ヘレナとウラン、理知的な女性、甘えん坊な妹という2役を巧みに演じ分けていた永作博美もステキだった!ピュアでかわいくて美しい。
以前から、演技が好きな女優さんでしたが、天馬博士に泣いてみなさいと言われてみて、無機質な「あー」「うー」という“真似事”の泣き声が、やがて“本物”の慟哭に変わっていく数十秒間の表現は、抑制された感情のほとばしりが、原作のあのシーンのこれ以上ない再解釈として、もう、ただ震えるしかなかったです。

今回、事前に最も配役で期待膨ませていた柄本天馬と松重アブラーも、予想どおりの満足度でしたよ!
柄本天馬は、ただ佇んでいるだけで、どうしようもない絶望と哀しみを通り越した諦観をまとっているようでありつつ、ときどき見せる全てを俯瞰し突き放すような語り口が、ああまさしく天馬だわーとニマニマさせられてしまう。
そして天馬博士とブラウ(の声)が、同じ役者の二役というところがまた。
アトムに“心”を与えながら一度はそれを否定し、またそれを蘇らせた、誰よりも激しい愛憎を持つ男と、そのアトムから“心”を受け取るブラウを同じ役者が演じるだなんて、何て暗示的な。すてき。

ちなみに、Dr.ルーズベルトの声はお茶の水博士と同役だったのですね…。これはパンフレットを見るまで分からなくてびっくり。
原作を読んでいたときは、子供っぽく無機質で淡々とした声を想像していたので、ハイテンションでウザさマックスのベアちゃんにはちょっと笑えましたが、天馬/お茶の水とブラウ/Dr.ルーズベルトの対比が同役というのには、いろいろ意図的なものを感じてしまうなー。

松重アブラー=ゴジは、原作よりも憎しみをストレートに吐き出す熱量の高い男になっていましたが、それがまた、天馬にアイデンティティの全てを否定され、ボラーという異形に姿を変え、最後は“息子”にも「父は死んだ、あなたはゴジだ」と言われ終わっていく原作『PLUTO』の容赦ない末路とは違って、アブラーという父親の姿を保ったまま、サハドの姿に戻った息子に抱きしめられて溶岩に消えていくこの舞台の救いあるラストには相応しい人物に微修正されていたなあと。
冒頭、空爆シーンで外れていたサハドの顔面パーツを、松重アブラーがおずおずと“息子”に再びはめてやるラストは、原作で無かった形の救いをプルートゥ=サハドにも与えてくれていて、泣けた。

このラストのアレンジはまた『鉄腕アトム/エジプト陰謀団の巻』を彷彿とさせる形でもあり、『PLUTO』オリジナルのサハドの影に、『鉄腕アトム』で描かれたロボットの子供たちの系譜を浮かび上がらせてくれたようでもあり。
個人的に、アブラー博士の怒りを、まっちげさんの舞台に響き渡る激白として聞けただけでも幸せ。

ちょっぴりエキセントリックでいながら愛情深く善良な人の好さがおかしみとともにあふれていた吉見お茶の水、真面目で妻を愛する一人の男という感が出ていた寺脇ゲジヒトもよかったー。


 +

しかし、これだけ満足度の高い舞台だったからこそ、台詞だけで済まされ、その残骸が舞台前面の灰色のオブジェの中で物悲しく存在を主張していたモンブラン、ノース2号、ヘラクレス、ブランド、エプシロンの物語も、この舞台で、演出で、観たかったなあ。
最後のプルートゥとの戦いで、アトムが6人ひとりひとりのことをプルートゥに語りながらぶつける台詞が原作どおりだったので、余計に。

いつかこういう幸福かつ贅沢な形で、3次元で見ることができたら良いなと思います。
モンブランの無骨な素朴さ、ノース2号の大気に満ちる音楽、ブランドとヘラクレスの友情、エプシロンが見つけ子供たちに見せた光。

リメイクというフィルターを何度経ても見出せる、
手塚マンガに息づくロボットたちの“心”の物語を。
『アトム ザ・ビギニング』第1話
テヅカごと  2014/12/21(Sun)01:54

そろそろ気分も落ち着いてきたので、ここらできちんと感想を書きとめておこうかと。


ええ、実は発売日(12月1日)に鼻息荒く買いに走っていました。
月刊「ヒーローズ」掲載の『アトム ザ・ビギニング』第1話。

もうねー、アトムですよ、アトム。その上、「ザ・ビギニング」ですってよ。

アトムの公式二次創作も21世紀に入ってからは、短編を広げに広げまくってサスペンス長編にまとめ上げた『PLUTO』、もはやパラレルと言っていいほどの改編がロボット対人間の悲劇を濃ゆい味付けで盛り上げていた『青騎士』、児童文学の顔してうっかり罠が仕掛けてあるつばさ文庫版『アトム大使』、アトム本体の存在すらなかなか出てこない遠い未来のお話になっているわらび座舞台版『アトム』……
……などなど既に各種存在していたので、ここに来て何があろうと、もう驚かないのよ?と思っていました、が。

あーそうかそう来たのかー!という感じ。
いや、むしろ、いっそやるならば、そう来なくっちゃなー!という感じ。

私、ネットでの事前発表(※これ)で、最前面にどんと位置する鼻の大きな青年と、後ろにいるネクラかつ偉そうな黒髪青年とを見たときから、ああ、これはお茶の水と天馬の若き日々をやるわけね、ロボット工学の夜明けを夢見て、油まみれ汗まみれ、涙をスパナに落としながら空回りに情熱を燃やす青春の日々を描いてくれるわけね!それってつまり、原作今昔物語ですっ飛ばされた、金髪トム少年から天馬午太郎博士になるまでの空白期間に挑もうという壮大なる公式二次創作ってわけですね!!…と、それはもうワクワクしましたから。

というわけで、第1話の時点から、既に期待の種があちこちにまかれています。
『アトム・ザ・ビギニング』。


始まりで、お茶の水と天馬が大学の同級生というところからすると、既にいっぱしの発明家だったお茶の水と、ぐれて鑑別所行きを繰り返していた天馬トム少年とが同じ年に存在している『アトム大使』(オリジナル版)とは世界線が違う様子。

しかし、二人の所属大学が「練馬大学」というところは、前に天馬のプロフィールについての記事でも書いたように、『アトム今昔物語』(オリジナル版)からある設定なので、まずここから嬉しい。

しかも「国立」ということは、このツリ目下睫毛な天馬午太郎くんもまた、今昔物語トム少年よろしく天涯孤独の身でありながら、「馬力に馬力をかさね」た「ダークホース」として大学に潜り込めた可能性があるのかなー。
いや、どちらかといえばお茶の水ヒロシくんのほうがそれっぽいかな。

何はともあれ、学食のコロッケパンをおいしいと微笑み、くず鉄に囲まれ、バイトで資金を稼ぎながら、高度な人工知能ロボットを造っている苦学生姿がほほえましい。


前に、ケロケロエース版『青騎士』感想でも少し書いたんですが。
原作において、天馬博士が、紛れも無い「天才」属性の狂気も幸福も一身に背負っている人物なのに対して、お茶の水は、善良だけれども「偉大なる凡人」という位置づけである、というのが私の解釈なので、今回のこの『アトム ザ・ビギニング』で、あえて天馬とお茶の水を同学年コンビ設定にすることで、そこの差異が明確に浮き彫りにされてきたらいいな、というのが一つの期待だったりします。

今回の話だけでも、ただの人工知能研究用ロボットに「かっこいい」という理由だけで1000馬力を得意げにつけてやる天馬には、亡き息子の身代わりのはずのロボットになぜか10万馬力と7つの力を搭載する後の天馬博士の面影がちらつきますし。
その改造に「過剰な能力」と言いつつ、いざそのロボットが力を用いて人助けをすれば、目を輝かせて「僕らのシックス……」と名を呼んで感激の涙を流すお茶の水には、目の前のロボットを単純に愛し、慈しみ、その遺骸には号泣する、後のお茶の水博士の表情が垣間見える。

オレサマ系の天才肌で、でもどこか子供っぽくて抜けている天馬を、お人好しで常識人のお茶の水が「自分勝手でうぬぼれ屋で思いやりのカケラもない大馬鹿野郎」とつぶやきながらも、その天才性を誰よりも認め、その子供っぽさこそ大好きだと臆面もなく言ってのけて世話を焼く、そして何だかんだいって天馬も「俺たち天才!」とお茶の水の存在を自分の相棒として受け入れているという、天才コンビものの鉄板とも言うべき絶妙な関係になっているあたりは、同学年という設定ならではですね。

なので、天才だからこそアトムを創り得た男と凡人だからこそアトムを救えた男、原作天馬とお茶の水というアトムを挟んで対峙するこの二人の男を、この設定フィルターを通して、どこまで抽出し、昇華し、掘り下げてくれるかが楽しみだなー。


個人的には、この天馬午太郎くんであれば、ああ、確かに中年になってからもお茶の水とのくだらない賭けを大まじめに守って、ヌカミソ一樽を食っちゃいそうだわーというのをびしばし感じられます。すばらしい。
ビジュアルは、天馬というより『上を下へのジレッタ』門前でない?という気がしなくもないんですが、先ほどうっかり下睫毛と口走ったとおり、手塚マンガの人材豊富な下睫毛系残念ハンサムの系譜に加えたい顔もしています。
このままりっぱにトリ頭の渋中年に育っておくれ。


それにしても、当面のライバル?となるらしき堤兄妹(モリヤ・モトコ=モリアーティ?)のビジュアルが、手塚というより石ノ森っぽく見えるのはなぜなんだろう。

 +

ところで、ちょっと気になっているのが、同誌で掲載されていた作者関係者さん対談でのカサハラテツロー先生のこの発言。
別のメインとなるロボットは出てきます。『A106』という名前なんですけど、このロボットの特徴は、誰からの命令を受けなくても、自律的に『ロボット三原則』を守るようにアルゴリズムが設定されていることなんです。

おお、アトムの前日譚で、ロボット三原則が出てくるのか。
前にも書いたんですが、ロボット法で縛られているアトム世界のロボットと、ロボット三原則をもともと持っているアシモフ世界のロボットとは違う、そのロボット観の違いこそが私としては燃えるポイントなので、そのあたりどう描かれていくのかなあ。そこは次号からのお楽しみか。

ヤング天馬とお茶の水が造っているプロトタイプロボット『A106』(明らかにアトムの語呂合わせ)の人工知能システムの名前が「ベヴストザイン(=意識・自覚)」なので、その人工知能の「意識」をどう解釈するかで、原作アトム的ロボット法式とアシモフ的三原則式、どちらに寄っていくのかが分かれそう。


何はともあれ、「あの大災害」とだけ書かれた導入部といい(今昔物語時間軸で天馬大学生時から逆算すれば、アトムタイムスリップ時のロケット爆発事故に相当するのですが)、表紙とカラー冒頭部分だけに出ている眼鏡っこ(バッグにかけられたスパナには意味ありげに「URAN」の文字!)といい、謎の多い第1話なので、ひとまず第2話までおとなしく待ちたいと思います。

前にも書いたけど、とにかくアトムの公式二次創作では、「アトム」という一つの象徴を通してさまざまな創作者さんの“ロボット”解釈が立ち現れ、それがまた「アトム」という大きな流れに融合していく、それを見られるのが、アトムを原点としたロボット好きとして何よりも楽しみなので、今回も何が飛び出すのかワクワクですよ。


次の話が載る2月号は、正月前倒しで来週発売!ふっふー。
オサコレ企画ペーパー再録
テヅカごと  2014/10/19(Sun)23:34

オンリー『治虫コレクション2014』無事開催&終了お疲れ様でした!
心配していた台風も日にちがずれてくれて、よかったよかった。
相変わらずの仕事で行けない組でしたが、ネット上をただよいながらお祭りの残り熱を味わわせていただき、ああやっぱりオンリーがあるっていいなあと実感中。


オンリー内であったペーパーアンソロジー企画「はじめてかいてみた」に参加させていただいたものを再録。
(表紙だけちょっと色付けして遊んでます)


(全4P)

素敵な企画趣旨にいろいろ考えてみた末、この作品で参加してみました。
せっかくの企画なので、B5にナイン全員を収めるのを目指してみたよ!

そんなに数が多くはないながらも、『メトロポリス』の草野球、『鉄腕アトム』のロボット野球……と、一つ一つになかなかかわいい味がある手塚マンガの野球シーン。
そんな手塚マンガの中でも珍しくナイン全員の名前とポジションがきちんと判明しているのが、この『タイガー博士』で、野球好きとしては、1ページ目のナイン紹介だけでもう、この子はどんなプレーをするのかしらとワクワク想像がふくらむんですが、いざ試合が始まってみると、ポジションが割といい加減だったり、点数計算がぶっ飛んでたり。
だけど、そういうところも、監督タイガー博士ののほほんとした台詞と併せて、初期手塚マンガらしいおおらかさが大好きな作品なのです。
タイガー博士の台詞「けすからん」とか「あわててはいかんですぞ」とか「落つるー落つるー落っこつるー」とか、妙な中毒性があって頭から離れられんのですよ……。

あと、監督とエースで親子鷹なタイガー博士とトラオ君も、手塚マンガにしては珍しいタイプの地味ーに普通ーに良き父子を自然にしてるところも良いなあと。
センター兼キャッチャーのガンちゃんは『鉄腕アトム』タマちゃんの原型かしらとか、スター国の機械党党首サキソフォンが、翌年執筆の『来るべき世界』では、同じ名前のスター国と敵対するウラン連邦の科学省長官ウイスキーを演じているつながりとか、スターシステム的に見てもいろいろ深読みできたり。


そんなこんなで楽しく描かせていただきました。
ちょこっとだけでも、これで参加できた気分になれて満足!
会場でお手に取ってくださった皆様、有難うございました。






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